自分は
すべてに対して同様に常に働いている、人が晒されつづけてけして防げない、それによって存在もしてしまう、時間の仕組みの比喩みたいなかたちで象徴的に雨をモチーフとして扱った作品が、学生時代の初期に多くあり
また、実際に雨水をつかった作品も代表作としてあります。
最近は比喩としてではなくて、実際に重力に従って流れ落ちるものとして水を使用する形など。
でも雨あまりすきじゃなくて
晴れがすきだなあかんぜん、と思っていたのですが
最近歩くのが自分の中で結構重要になってきていて
なんか段々、雨の日もかなりすきだなあという実感が五月あたりから、眼球喜ぶ、ばらばらのコーンのちらばりと先端の割れ、黄色と黒の縞棒をがん見の、がん見の、べたって落ちた水塊はコンクリの橋の上から、瞬間魂ふるえる、は一例(ていうかそれはくもりの日だったか)
なぜか何がきっかけか、段々、雨の日もかなり好きになってきています。
放射能含まれてしまっているのにね、と思いつつ。
本当はないはずのもの。
防げない、そしてそれによって存在、なのは、時間とか死ぬとかそういうので十分なのに。
あってはならない状況によって
また、どうしようもなく、新に、雨に対する実感、かわってきてしまっていて
今回の清澄では、そこまで掬いきれるか分からないけれど
雨使うかも分からないし
でも雨について
今ずっと、おもって、描きました。
詳細こちらです
http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/05/blog-post_26.html
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