この貴重な企画に声を掛けて頂いて、ただただ感謝するばかりです。
自分はこれまで平面、映像作品を使ったインスターレーションを多く制作してきました。
また大分県別府市に『Ivory』というスペースを構え、展覧会やパフォーマンス、トークイベントなどを企画し自分と近い世代の作家を紹介してきました。
じたばたと色んなことをしてきましたが、
個人制作と企画運営の二軸で活動を続けるということは
それらはどちらも『想像力の生まれる場所』に関わることでした。
難しく考えればややこしいのですが、
要はキャンバスに描くことも、企画書を作ることも全て「手段」なのだという風に考えています。
自分が大事にしたいものは想像力であり、価値観の更新なので。
清澄寺の住職さんとのお話の中で
『仏教は本来体験を重んずるもの。昨今では文献での研究や形式ばかりが盛り上がっており体験が軽んじられている』
といった内容を聞き、自分の中で現代アートの今の状況とリンクしました。
よりコンパクトで解り易く、インスタントな情報に触れることを受容してきた社会では
想像力は劣化に向かい、強度の無いアートマーケットが作り上げられる。
いつからアートの世界はこのサイクルにはまってしまったのだろうか、と思います。
人間の想像力を働かせることで、文化はかたちを成していけると信じています。
その中で理性にばかり重きがかかり過ぎると、どうにも具合が悪いので
やはり住職さんのお話のように、感覚的で目に見えない部分を同時に磨いていけたらな、と思います。
また、僕は体育会系の親父に育てられたこともあり
少林寺拳法を5歳の時から11年程続けていました。
少林寺に於ける運用法は『立禅』と呼ばれ、お寺で坐るタイプの座禅は『静』の禅、自分がやっていたものは『動』の禅であったと記憶しています。
そこで教わっていたこともまた『体験を通じてかたちの無いものを得る』ことの作法だったように思います。
さて、今回自分の作品が(というか自分自身が)如何に場所と呼応していくのか。
いつもの作品の文脈がどのように変わるのか、とても興味深いです。
出来たら形式にこだわらず、肩の力を抜いて作れたらと願います。
僕の感覚では、箸でパスタを食べても良いと思います。
必要ならフォークでそばも食べます。重要なのは何が食べたいかなので。
滞在制作の中で、自分が本当に残していきたいものの形は何なのかを
探していけたらと思っています。
まじめに。ズルをしないように。
梅雨入りをした京の都より、藤野でした。
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