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※恐れ入りますが、企画者もアーティストのため至らない点が多々あるかと思います。ご意見、ご要望等ございましたら、なんなりとお申し付けください。

2011年6月2日木曜日

アートが山にのぼること、について自分が思うこと


齋藤春佳です。
今回清澄寺という環境で展示をさせていただく機会をいただき、とても嬉しく楽しみに思っています。
寺という仏教の、清澄寺という日蓮宗のすごいところで、やらせていただくわけですけれども
この展覧会は
特定のひとつの宗教や宗派や思想を推したり主張したりするものではありません。
皆ばらばらであるし、
私にいたってはチキンを食べた7日後に善光寺に初詣に行くような様子の家庭で育って、今年は4月におみくじで吉をひきました。なんとなく、土葬がいいなって思っています。
私のこの言葉もけして他のメンバーの代弁にはならず、
グループとしての特定の主張はない(これも私の主観ですが)(この時代において芸術の役割を呼び覚まそうというねらいとしての主張はあると思います)
あくまで、6人で展覧会をやる、という事実だけが確実にあるといえるとおもいます。

ではなぜひとりではなく、それでも6人で集まって寺で展覧会をやるのか、といった時
私は、清澄で、メンバー全員と初めて会って、のこぎり山を登る過程で、体験したことを思い起こします。
山道で誰かが聞いたから皆が知った「世界には不思議な穴がいっぱいあるね」、誰かが覗き込みに行ったからいたおたまじゃくし、やごの羽化、誰かが口にした杉の肌のきれいさによって見る、誰かが辿ったホースの先湧く水滴る光の道、誰かが見つけた小さい水色の花が畑状、砂浜に描かれた線をつなげる、波はα派だよ、誰かが石投げ始めることに誰かが参加する、猫との会話の仕方、魚がつれない場所、魚がつれる場所としての橋、花を髪にさしてあげる光景を見る、こわいものとしてのとんび
ひとりが見るもの聞くもの触るもの風景やすることや発見
それをするひとりひとりばらばらの人たちが、自分の体を使って山を登ることで見えるものが
呼応して、ひとりじゃ知りえないところまで、見えなかった聞こえなかったものまで
見たり聞いたりできることになる。んじゃないかなっていうところが、皆でやっておもしろいところだと思います。展覧会に通じるんじゃないかとおもっています。


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