自己紹介

自分の写真
※恐れ入りますが、企画者もアーティストのため至らない点が多々あるかと思います。ご意見、ご要望等ございましたら、なんなりとお申し付けください。

2011年6月28日火曜日

アーティスト活動

こんにちは千ヶ崎慶一です。今週の日曜日に、ポスターの掲示をお願いするなどの宣伝活動をしに鴨川へ行ってきました。もう何度も鴨川に行っていますが新しく知る事が毎回あり、いつも驚いています。アーティスト活動はなかなかハードですが冒険に満ちています。前進している事を実感できているのでとても充実しています。

2011年6月27日月曜日

意志と不安に挟まれながら制作中

昨日は5度目の打ち合わせで鴨川へ。。。
多分既に一アーティスト企画の展覧会の規模超してるぞと思いつつ、出来上がったポスターやチラシを関係者などに配って行く。町の人が集まるすし屋さんにも置かせてもらう。
途中、鴨川のアートエリアをリサーチしていた際、前から気になっていたアラビアン・アートホテルによってオナーさんなどとお話しをする。
http://www.jalan.net/yad386163/
オーナーさんはエジプトで実際に生活をしていたこともある方でホテルの内装やコンセプト、お料理などとてもこっていて是非一度泊まりたいなと思いました。
地方にはこういったこだわりのホテルなどがたくさんあって楽しいです。
展覧会にお越しいただける方は、アラビアンアートに泊まってゆっくり千葉の魅力を感じてみてはいかがですか。

オーナーさんから太古の演奏方法を教えてもらってます。
千ヶ崎くんどこの人ですか?めちゃ似合ってる
このホテルはベリーダンスの人達にも有名なホテルで、いろいろ衣装なども借りることが出来ます。たのしーー!!

まー遊びつつ。宣伝活動をしました。
あと、レジデンスで使わせていただく家もきまり、なんかスゴいことになっているぞというワクワクと、既に自分達の予想不可能な領域になっている不安感が常にあります。
でも、自分の出来る範囲で丸くおさめるのではなく常に予想不可能な状況こそアートが持つ力なのかも知れないと思うのです。
もし、僕がアーティストをしていなければ、これほどの多くの方々とは出会えなかったと思います。土曜日の尾家さんのブログでもありましたが、本当に感謝の気持ちを持って多くの方々と出会えたらと思います。
町中にポスターやチラシが貼り始めたのをみて改めて今回の企画の可能性を感じるのです。
でもアーティストだけでもこれだけやるのだから、こういった運営をする人達もアート業界にはやはりもっと必要だな。
一展覧会から始まったこの『アートが山をのぼること』が今や鴨川の町お越し、お寺の現在を考えることなど多くの意味を持ってきたことを考えると、もともと展覧会とは開けたもので、一メディアの可能性すら持ったものなのだと再認識しました。

150年前の建築に僕達のポスターが貼られ、町が日常という時を刻々と刻みながらも、少しづつ変化して行くようで胸が熱くなりました。。。

制作は。。。
今までの制作スタイルと少し違うきもしながら、成長できそうな予感もしています。
これは着ぐるみを作っています。今まではコンセプトを決め、それに向かって制作をする様な制作スタイルだったのですが、今回の作品はコンセプトは決めながらもその周辺を回り、手の届くか届かないかの葛藤を繰り返している感じです。
丁度、北極星の周りをまわる星のように、僕の作品も一つ一つは別の星だけど全体を見れば大きな夜空に変わる様な作品になればいいな。。
人が無限の星々を繋ぎ、多くの星座や物語を残したように多く可能性を秘めたコンセプチャルアートは可能なのか。。。

〜 はじめての 鴨川 〜

地唄舞 舞い手 花崎 さみ八です

「 さみはち 」ではなく 「 さみや 」です。。



昨日 はじめて 鴨川を訪れ

地唄舞を舞う予定の 清澄寺周辺を 散策しました




まずは・・・



つけものから




アートな すし屋にて





アラビアン アート ホテル ハッケン!




アハラン ビクム




アラビヤ〜ン




まもなく ダルブッカ プレイヤーに




白いんです




やっぱ これでしょ




ポスターも バッチリ




モゥ 握手は ほどほどにね





交信中・・・




崖っぷちの 制作小屋




景色は バツグン




ここにもね




来月は 富士山のぼってきまーす





ここが 清澄寺!




いざ 突入




ご神木




ここで 舞えるかな



ウェイクアップ




霧 たちこめり




井戸




日蓮聖人





初日の出 日本一早い地点なり




日蓮聖人 お題目始唱の聖地




ぶよに襲われる 逃げろ〜





いざ 仏舎利塔へ





うーん すごぃ





にゃ〜




長靴に 塩を巻く

これで ヒルも ヒルむそうな、、




アートな とんかつ店




おつカレーさまでした



2011年6月25日土曜日

土曜の夜のちょっといい話~日蓮法難編~

土曜日担当オヤアンナです
あついですね。
節電が叫ばれていますがみなさまどういう風に暑さを乗り越えていますか?

~日蓮ってどんな人?~
 
 一言で言うと使命感に溢れた人だろう。
何度も幕府と対立したが、それにめげることなくむしろ反対されるほど日蓮宗の信者であることの証明ができると、自分の信念にしたがって動いた。
その信念とは法華経こそがただひとつ正しい教えだと言うことだ。

 日蓮は確かに強い意思がある強い人だ。
しかしその強い日蓮をサポートする周囲の人間たちがいたことこそ、日蓮が力を発揮できた理由だろう。私はそれを日蓮が体験した法難の内のふたつ、「松葉ヶ谷法難」と「伊豆法難」の逸話から感じた。
 
 「松葉ヶ谷法難」では日蓮は他宗の僧に松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちにされるが、白いサルたちに導かれて難を逃れたという逸話が残っている。この白いサルとは犬神人と呼ばれる人々だったらしい。犬神人とは神社に属し、皮はぎ業を営む人のことである。
 
 「伊豆法難」では幕府によって伊豆国伊東へ流罪にされたが、漁夫にかくまわれた。日蓮はもともと漁師の子である。また、産まれた浦刀禰は漁業や供御田の管理をしており、漁業にかかわる人々から敬われていた。
 
 日蓮はこの法難によって命の危機にあうが、これら道々の人によって助かっている。
そしてその後も変わらず信念を曲げずに行動を続けた。

 だから日蓮の教えが今も私たちに伝わっているのはその、道々の名も無き人々のお陰でもある。
日蓮が一人でぶつぶつやっていただけでは今、日本に日蓮宗という宗派すらなかったかもしれない。そう考えると一人の力は多人数の力にはかなわないと感じる。

 一日を無事に終えられても一人でそれをなしとげたわけではないと思う。
さまざまな人、さまざまな環境によって一人の人の一日が形作られる。
だからいろんなものに感謝しながら一日を思い返すのが大切なのだろう。
みえないものにもみえるものにも「ありがとう」。かかわったものにもかかわっていないものにも「ありがとう」。
 
 日蓮の生涯を思い返すなかで感謝の気持ちを思いだした。
 

制作メモ:日蓮の逸話をモチーフにペインティングを描いています。
 ①日蓮が生まれた時に海に蓮の花が咲いたという逸話
 ②鵜飼の幽霊を鎮めるために小石に経の文字を書いて水底にしずめたという話
 ③松葉ヶ谷法難の逸話

2011年6月24日金曜日

追われてます〜
山口です。

素材を集めつつ、初の立体作品に挑戦/苦戦してます。
不器用すぎて周りに迷惑かけまくってて、何とか、何が何でもモノにして表現にして行かなきゃと、ぐぐっとなっております。


神さまのためのものづくりは、多分いまの私の宗教観とかリアリティじゃ出来なくて、
描く人の いっこの人間の恐れとか、苦しさとか、優しい気持ちとか、そういう小さい次元から、
いわゆる「神さま」のような高い祈りの次元へ向かって想像して、その想像によって移動し変わって行く経緯が刻まれる,
自分がいま感じているものはそういう臭いの残ったものだと、
今日、祈ることとか仏教、自然信仰等を中心に資料を見ていて感じました。







興福寺の阿修羅像、あまりに有名ですが当時の像としては過剰に華奢らしく、それは制作を命じた光明皇后の幼くして亡くなった息子の姿を模しつつ、成長したらこのようであっただろうと想像した姿を基にしているそうです。





 伝香寺の地蔵菩薩。本体は裸で、本物の袈裟を着せられている。
制作を希望した老尼は仏体の内部に自らの交縁録等を遺し、
日々この像を慈しみながら袈裟を着替えさせていたそう。




自分に祈ることが出来るのか。
何にむかって 何のために

自分と祈りの間に感じている距離。
早くかたちに変えて行きたい。


2011年6月23日木曜日

早寝早起き、夕寝わあ。

いろいろあるけど、なにかこうと、まどっていたら、日付回ってしまいました。
今日は
ナシゴレン作る決意と遂行を、まっすぐにおこなった。
多分生涯でナシゴレン食べたことって、想像の中か、一度か、ゼロしかないけれど。




制作は、色々な道具使ってのドローイングと、プランだし、メモみたいなテキストを赤ペンで書き続けて月、緑色のうさぎ、眼球、地球、天体の影、平面、光の到達、月の引力と地球の自転による潮汐、海面、海中、新月、丸、球、いつのまにか海亀の卵のことをかいていた。



展覧会の本制作につながりそうな、つながらなそうな、素材やアイディアを、自分が手を動かすことで点々と、用意する段階です。
ちょっとあせってもいます。
けど、ひとつひとつずつしか、ないですね。というきもちで毎回ぐっと潜るように気をつける。
最近は半分は気を失っているようなもんじゃないか、という感じの集中が、おもしろい気がしている。というか今までもあったことだと思うけれどそういう風に言葉にした自覚。


自分がいつもおもうのは
自分が脳みそで意識して想像できる範囲のことは、実物が存在して及ぼすすべてに比べて、ほんの少しだと思うから
(想像力というものに対して広がりがないという意味では全くないです)(実物と想像、逆も勿論言える)
できたもの、存在するもの、痕跡に、助けてもらいながら、
反応して、また作って、完成して、見る、見るが作る状況、またひとつ
そういうかんじに、作っていくんじゃないかなとなんとなく思っています。
ひとつひとつ。
でもあせる~なんか、ああ私。
がんばります。



けっこうかいたな


かくことないなあとおもってて、メモから引っ張ってきたテキスト
自分の形にならない信仰みたいなものを感じたできごと、読書のこと、載せておきます。

:::::::::
吉本ばななの『王国~その1~』多分6年ぶり再読。電車。
高校生のときに、ガンガンになりながら読んだことは凄い覚えているが、内容はさっぱり忘れていた。けど、含まれている道徳とか、ゆずれなさとか、恋とかの、規範や、理想が、知らずに自分の中全体に息ずいているのがわかって、ぶわ、一語一句が見逃せなかった。高校生の自分のこと嫌だったし、吉本ばななももう普通くらいの好きさだけれど(たまにてれくさいような、きがしてしまうときすらうまれ)、しかしそれら過去に感謝するような思いの読みだった。
それからお茶は、売るためにではなくて、きれいなパックにして美しく丁寧に作ることがとても大切だと私はおばあちゃんにたたきこまれた。それは儀式であり、茶とそれを開けて飲む人間の両方に、あるきりっとした心構えを作るのだという。人だけではなくて茶の方にもそれを分かってもらうというのが、おばあちゃんの哲学の真髄だったと思う。」
抜き出して書くのは、そこだけだから、ぜんぜんあれだけど、今回はそこの部分読んだ瞬間に読み進めながらふわーと思ったことを書きます。なので引用しました。勿論他の読む瞬間も本当に見逃せなかったし、この部分が特に、ということでもない。ずっといろいろ。

自分はその主人公の女の子みたいな
敏感さも魔法も持たないけど、
インスタレーションの時の、ほんのすこしの差による絶対的な差、これ!今!とか、違う
って、理由なくなぜかわかる時のこと、思い出した。
絵にもあるね。
その方法はピシッとするだけじゃないピシッと仕方。
空気が変わる瞬間を、作って、それをそのままにするか、しないか選ぶ。

色々言うけど
コンセプトとか言うし、それら本気だけど、
なんだかんだ勘でやってんだな…。
今日素材選びのときの想像の広がりの選択にも感じた。
いつも半分気を失ってるようなものだ。
気を失っているのが悪いのではない。
だからこそなおさら敏感にならないと。
作っている最中の時間。


色んな、自分が出てきて
したいとかやりたいとか、認められたいとか、喜びの種類も色々あってしまうけれど

世界に自分の体を通してできることをやらせてもらうだけかも。そこを、見失わないで、つきつめていくのなら、世界はひとつひとつ、受け止める場所を用意してくれていくきがする。
それがむずかしいけれど。
::::::::::::::::::::::::


など
わあつくります
どきどき




2011年6月22日水曜日

アートのテーマはアート

こんにちはアーティストの千ヶ崎慶一です。アートのテーマはアートしかないのだと最近私は考えています。

それではアートとは何か?鑑賞者に「今自分は何をしているのだろう?」と思い返させるものがアート作品だと私は考えます。退屈だったり煩雑な日常から気を紛らわせるものではなく、逆にそれを直視し考えさせるものだと思います。私はダ・ヴィンチコローの作品からそのような鑑賞体験をしてきました。

それなので、鑑賞者が「今自分は何をしているのだろう?」と思い返すことが出来る様な仕組みを自分の作品で作るように私はしています。



Uploaded by 千ヶ崎慶一(Chigasaki Keiichi)

2011年6月21日火曜日

搬入まであと1ヶ月!!

はやいっ!!時間が早い!!
このプロジェクトを始めてから既に半年近くになりますが、もう少しゆっくり考えて準備できるかなと思いきや、あと1ヶ月程度。。。。

やっとチラシも完成して、まだこれからプレスやら最終打ち合わせやらなんやらたくさん仕事がありますが、肝心の制作がぎりぎりの状況です。今夜中の3時まわりましたが、この時間まで必死こいてやってます。
リサーチもこの機会にしなきゃということで釈迦寺の住職の影山さんの著書などをよみ今仏教などが抱える問題やアートとお経の意外な接点などを考えています。

少ない時間ですが、絶対にこの貴重な機会をものにする。
新しい自分の可能性。
あたらしいアートの可能性。
忘れ去られた全てのもの 可能性。

この展示は時代に残る展示になると僕は考えています。

2011年6月19日日曜日

チラシの完成



こんにちは千ヶ崎慶一です。チラシの入稿がようやく終わりました。なかなか大変でしたがようやくこれから作品に取り組めます。協力してくださった方々に感謝します。

2011年6月18日土曜日

オムライス考察篇

土曜担当オヤアンナです。
じめじめしていて体がだるいです。
隣の犬もなんだかだらだらしています。
そんな日には普段考えないことを思いつくものでオムライスについて見つめなおそうという試みをしました。
以下 オムライスについての考察になります。

「-オムライスには外側から見えない部分がある。
それは中身である。

オムライスの中身はチキンライスかもしれないしピラフかもしれない。
ピラフはピラフでもカレーピラフの可能性もシーフードピラフの可能性もある。


スプーンを入れないと中身は分からない。未知の食べ物、それがオムライスである。

オムライスはたいてい子供に食欲をそそる食べ物である。
しかしそこに目をつけたお母さんが中に嫌いな野菜を入れている可能性もある。

グリーンピースが入っているかもしれない。ピーマンが入っているかもしれない。
ピーマンはピーマンでも赤ピーマンの可能性も黄色ピーマンの可能性もある。

そんなときどうするのか。
嫌いなグリーンピースを一個一個取り除きながら食べるのか。
ピーマンのかけらを隣に居る兄弟のお皿に移しながら自分だけピーマン抜きのオムライスにありつくのか。

しかしそれらを取り除いた所で、お母さんの「野菜を食べてほしい」という願いは無くなるわけではない。
お母さんは子供に元気に育ってほしいがために栄養たっぷりの野菜をオムライスに仕込むのである。
お母さんの本当の願いをくみとり、オムライスの中のグリーンピースを平気で食べられるようになれば一人前である(かもしれない)。」


というわけで「アートが山を登ること」もそんな、外側からだけでは見えない中身を感じていただける展覧会にしようと思っています。
作家はオムライスの中からがんばりますのでぜひご高覧いただけると幸いです。

2011年6月17日金曜日

メモより

(日付変わっちゃった;)

大学内での展示がなんとかスタートし、やっとこちらの制作に集中できます。
今はプランを詰めている段階ですが、今回は屋外での展示を予定しているので大きさや耐久性をもっと具体的に考えなくてはなりません。
今月中に再度、少しじっくり目にリサーチにかえりたいと思います。

今考えているのは、
私(たち)はお寺の漠然とした崇高さに対して心惹かれたり敬意を抱いていたのではなく、そこにいる人間のひたすらに祈りに向かう姿に打たれていたのではないか、ということ。
そもそも仏教の軸である釈迦も人間だった。
『自分と全く違う存在としての神さま』ではなくて、『自分と同じひとりの傷つく肉体や起伏する感情を持った人間』が 想像も難しいくらい遠く遠く高い高いところまで行った という軌跡、だからこその驚きで、凄みで、
だけどそれに畏怖して崇めるのでなく、道標として敬意を払って 今いるところから自分が動くこと、
それがそこにあったシンプルなかたちなんじゃないか。

それが仏道に限らずはんとうは誰にも選ぶことの可能な態度だからこそ、
過去多くの人が感化されてきたんじゃないか。

今度の作品はかなり自分の近い、ナマな部分から始まると思います。

2011年6月14日火曜日

プレゼント作品アップしました。

新作4点アップしました。



自分は
すべてに対して同様に常に働いている、人が晒されつづけてけして防げない、それによって存在もしてしまう、時間の仕組みの比喩みたいなかたちで
象徴的に雨をモチーフとして扱った作品が、学生時代の初期に多くあり
また、実際に雨水をつかった作品も代表作としてあります。
最近は比喩としてではなくて、実際に重力に従って流れ落ちるものとして水を使用する形など。


でも雨あまりすきじゃなくて
晴れがすきだなあかんぜん、と思っていたのですが
最近歩くのが自分の中で結構重要になってきていて
なんか段々、雨の日もかなりすきだなあという実感が五月あたりから、眼球喜ぶ、ばらばらのコーンのちらばりと先端の割れ、黄色と黒の縞棒をがん見の、がん見の、べたって落ちた水塊はコンクリの橋の上から、瞬間魂ふるえる、は一例(ていうかそれはくもりの日だったか)
なぜか何がきっかけか、段々、雨の日もかなり好きになってきています。
放射能含まれてしまっているのにね、と思いつつ。

本当はないはずのもの。

防げない、そしてそれによって存在、なのは、時間とか死ぬとかそういうので十分なのに。
あってはならない状況によって
また、どうしようもなく、新に、雨に対する実感、かわってきてしまっていて
今回の清澄では、そこまで掬いきれるか分からないけれど
雨使うかも分からないし
でも雨について
今ずっと、おもって、描きました。

詳細こちらです
http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/05/blog-post_26.html

ファンタジーエンを旅するために。。。

夢って不思議ですよね。。。。
子供の時と今の夢ではだいぶ内容が違います。。。
今よくみる夢は日常の延長。。。実際はないけどあっても不思議でないレベルですけど、子供の頃にみる夢って空飛んだり、不思議な力を手に入れたり、どこかファンタジーの国に来たようです。
夢の世界と現実の世界2つの世界があるようなそんな時間は、僕にとって今絵を描くこととそう遠くないようです。

しかし、最近改めてC.W.ニコルやミヒャエル・エンデ、ジョゼフ・キャンベル、ルドルフ・シュタイナーなどの神話的な本を読む機会が多いのですが、不思議なことにこういったよい文学に触れていると夜夢の中でファンタジーエンを旅できるのです。
多分、ほんとによいファンタジーとは大人も子供の頃の頭に戻してくれてるのだなと思います。
これらの文学は、物語を語るだけでなく、僕たちに物語を開いているようです。

僕もそんな作品がつくりたい。

そういえば、昔エンデとボイスの対談ってありましたよね。。
ぼくはアーティストのなかではボイスがすごく好きですが、やはり自分のたち位置としてはエンデの方が共感できますね。
そう思うといかに誠実に対話を成立させるかの努力を軸をもって行わないとなんだな。ボイスの更新されていく感じも好きだけど。。。。

千ヶ崎慶一日記

こんにちは千ヶ崎慶一です。最近はプレゼント作品も徐々に仕上がって来て展示本番の制作に移ろうとしている所です。下にアップロードしたのは新しい企画書です。これ通りに行くかは確定ではないので解りませんが、鎮火牛をテーマとした映像インスタレーションを展示しようと考えています。



Written by 千ヶ崎慶一(Chigasaki Keiichi)

2011年6月12日日曜日

すごろくってどうかな

ツアーに組み込まれたスポットにちなんだ双六を作って来場者の方に配ったりしようかなと一人で思っているのです。

さいころの目に運命を決められてふらふらするなんて人生みたいで良い感じだと思います。

勝手に作ってまた、アップするかも。
ツアーの詳細とかも交えてみようかな。

2011年6月11日土曜日

制作中

こんにちはー。
”secret base”

オヤアンナです。

奈良は最近じめじめしています。関東のほうはいかがでしょうか。
ブログがだんだん充実してきましたね♪
私もこの企画がどうなるのか楽しみです。

このところは瞑想で得たイメージと、普段からテーマのひとつにしてきた幻覚のような状態をミックスさせようとペインティングに取り組んでいます。








         参加者の人へのプレゼントはどれにしようかなと思案中。