自己紹介

自分の写真
※恐れ入りますが、企画者もアーティストのため至らない点が多々あるかと思います。ご意見、ご要望等ございましたら、なんなりとお申し付けください。

2011年7月30日土曜日

入山間近。


夜は少しだけ過ごしやすくなりましたが、まだまだ暑いですね。

先日は京都・八瀬比叡山口に行って参りました。
山と川、雄大な自然に囲まれ友人アーティスト達と狂喜乱舞。
激流にダイブ→全身を岩で殴打。軽く出血するも生還。楽しかった。。

山はどこにいても何か大きな存在と繋がっている気持ちになりますね。




最近は自分の制作の中にある要素を見直すばかり。

日本のアートにはコンテクストが無い、とよく言われますが
それらは自分の足下から探るほか無いでしょう。



信仰と、僕たちがアートと呼ぶものには似通った先入観がある気がします。

それは『納得』の領域かもしれません。



これは友人の話です。

両親が熱心なクリスチャンだった彼は、幼少の頃からキリスト教と距離の近い生活をしてきました。
教会にも通い、神様のお話も素直に面白いと感じてたそうです。

しかし彼の祖父、祖母はクリスチャンではありませんでした。

大好きなふたりのことを考えてるうちに、辿り着いた結論は

『おじいちゃんおばあちゃんが天国に行けないんだったらぼくも行けなくていいや。』

だったそうです。

それ以来教会に通う理由も無くなった、と彼は言います。

(※勿論キリスト教を否定してるわけではありません。。)


歴史にも目にすることができますが
人はかたちの無いものに、とてつもなく苦しんだり救われたりするので

どこかでアートにも意味づけが必要なのかなと思います。




少しずつ雲が夏らしくなってきましたね〜
明日京都を発ちます。







2011年7月27日水曜日

もうひとつの星の井戸の底のこと

みんなちゃくちゃくと作品出来上がっていってそうですね!
もう、出来てるんですか…!
私はちょっと、実はまだまだ不安でいっぱいです…。
作り続けています。


インスタレーションを考えていますが、
インスタレーションの、あんまり見た目はすっきりしてないやつを
展示場所にいないで、作っていくのは初めてなので
うまく関わっていけるのかな…という不安があります。
早く現地に行きたいです。という気持ちと、まだまだ準備が足りない…!という気持ちです。


折角皆と過ごせる時間をひとり殺伐としたくないです~
しちゃうかな…
多分現地での物物や事々との出会いが重要になってくるので
とかいいつつ、カメラも持って、寝袋ももって、日焼け止めももって、マスクもって、サングラスもって、ハードディスクも持って
日記書こう~ 塩つくりたい~ 毎日あの作品すすめよう~ 散歩しよう~
など楽しむきまんまんです

私、海の近くに滞在したこと、生まれてこの方ないです。  



またはなしがずれてしまった…





そのインスタレーションに関しては
自分の気持ちの中で、すっきりしている部分をしっかり持って、
ごちゃごちゃにのぞめるように頑張ります。



とまとまったかと思いきややっと本題です。













小さいドローイングです。またプレゼントドローイングのほうにもアップします。




今回の展示作品のうちのひとつに
星の井戸についての作品を考えています。


星の井戸とは
千年以上前から使われている井戸で、井戸の中に星影をやどすと言われています。
というものだそうです。

実際物との直接の関わりなくプランを勧めているので多分自分の誤読もあるかもしれないと思いますが…。これもまた現地でどうなるか、不安と楽しみです。






井戸の底の水面に星が映るのを見る時
近い星と遠い星の光が同時に見える今の瞬間に、遠い過去からと近い過去までの光景を同時に同じ平面上に見ているということが起きています。

深い井戸にコインを投げると願いがかなうという伝承は世界各国に残っています。

水面ではない乾いた井戸底に水することで
水面として空映す(光年先、過去の光景)
&何かによってそこに今はないコイン跡浮かび上がる(過去の祈りの跡)

星みたいな祈りの跡が、平面にあらわれます。


お金を投げると願いがかなう、その願いは
お金で交換できない願いです。(お金と交換できる願いなら、そこにお金を投げ入れないで、直接交換するから)
資本主義の流れに乗らなくなっちゃう、増殖の欲望を持たない
今後何とも交換されない、
祈りのツールという特殊な
お金の、ただきらきらだとか、でもいくらだろうって見えるよ
祈りにいくらまでなら出せるんだろう、量じゃないけど、量があらゆるものと変換可能に見える
どこまで「祈る行為」の力を信じているんだろう
500円玉と1円玉の存在ぜんぜん違う
色々含んだ
お寺でのお金の
見え方についても、言及していこうと思っている作品です。

Squids

2011年7月25日月曜日

じぶんをなくする

   
舞っている時に 一番気をつけていること

    自分を出すのではなく 自分をなくすこと



なるべく 自分のクセがでないように

    自分の意志が出ないように 自分を消す 



常にしっかりと 地に足をつけ

    自分の力が邪魔しないよう 重力を受け流し



天と地とのバランスを保つために

    効率よく 体と呼吸をつかう




それでもなお

    自分からは逃れられないのだけど



そうやって

    自分を小さくすればするほど



大きな力が

    天と地から 返ってきて



そして

    その力は 自分だけの力を

    はるかに 凌駕するものである

   

2011年7月24日日曜日

宗教のこわさ

土曜日更新担当尾家杏奈です。



自分のホームページを作ってみました。http://annaoya.jimdo.com/
よかったら遊びに来てください〜

今日も今日とてブログ更新いたします。

宗教に首を突っ込むのは少し怖い。

日蓮宗について勉強する機会をいただいて、日々クーラーの効いた図書館やら書店やらで勉強させていただいているのだが、最近こう思う。

ブログなんだからネガティブなことを書いてはいけないと押さえていたが、正直に書くことにした。

やっぱり宗教は怖い。

しかし、宗教は別に噛み付いてくる訳でもない。
だから今日はゆったり身構えて、なぜ怖いのか、を考えてみよう。

①宗教の歴史は争いの歴史だからかもしれない。

世界にはたくさんの宗教がある。それらは争いの火種になることも多々ある。

現に今でも、宗教が国同士の争いの原因になっている国々さえある。

日蓮の一生に至っても争いなしでは語れない。

そのせいか宗教からドロドロした歴史を感じてしまうときがある。

②宗教施設は人間の欲望が集まっている場所だからかもしれない。

祈りや願いはどんなにいいものでも少し怖いものではないだろうか。

「〜になりたい」と願って叶えてしまう人たちがいる。

それを叶えたいと願う人間の欲望は計り知れない。

その膨大な欲望が一カ所に集まっている宗教施設というものは神聖でありながらきわめて俗っぽい場所でもある。


そうはいっても宗教に寄って芸術や学問、文化が発展してきたことはまぎれもない事実である。

昔の人は読み書きそろばんだって寺子屋で学んだものだ。


しかしやはり宗教には親しみきれない怖さがあるとも思う。


例えば、絵馬の形一つとっても大仏の形一つとっても、それを作るのに要したたくさんの人の欲望がある。

それが脈々と現代まで残っているというのはやはり尋常じゃない。

それらを育ててきた宗教の根元にある人間の欲望と、その欲望まみれの人間たちの争いを感じてちょっと背筋が寒くなってしまった。

理解を超えているのだ。


‥節電の夏、今年はクーラー控えめで済みそうだ。



(とか書きましたがもう作品も郵送して展示する気は満々です笑)

2011年7月20日水曜日

鎮火牛のモデリング












現在、鎮火牛を3DCGで制作しています。3Dのソフトを操作するのが初めてなので、時間がかかっています。作品を作るからには発見や発明が毎回無くてはならないと私は考ます。今回はそれが3DCGなのです。

2011年7月19日火曜日

山にのぼる

先日 富士山に

登頂して参りました



















お天気にも恵まれ

すばらしい御来光を 拝むことができました



富士山は古くから 日本の象徴として

また 信仰の対象として 多くの信仰を集めてきました



















足下に広がる 雲海

地平線から登る 真っ赤な朝日


非日常的な情景を

肌で感じることができます



頂上に至るまでには

岩場や砂利道を 一歩一歩進み


気温や酸素の低下に

自分の体を 対応させて行かなければなりません



非日常の未知の環境の中で

自らの限界を感じ


あるいは 限界を超えた

その次の段階に至り



己の限界と可能性に触れることで また

あらたな世界が 広がって行くのではないかと思う

今日この頃です

 

2011年7月16日土曜日

製作中の部屋から

土曜日更新担当オヤアンナです。

 花崎さんの「残月」の詩がとてもすてきですね~。
 映像が浮かぶようです。
 字面だけでも素敵なこの「残月」を花崎さんがどんな風に舞うのか、楽しみですね♪
 
そして展示も近づいてきました。
 ラストスパートですね。
 
山口さんのあのドローイングから立体になるのかなーとか
 
平川君の絵の配置はどうなるのかなーとか

千ヶ崎くんの作品は映像なのかなーとか

斉藤さんのつれづれなるままに書かれた文章はなかなか夏の夜に合ってるなーとか

藤野君の作品は空間とどう響くのかなーとか

ブログを見ているだけでもいろいろ想像が膨らんで楽しいのですが、

ブログからは見られないこの企画の結末をぜひ見に来てくださいね。


私もラストスパートに向けて走ります!


 

2011年7月13日水曜日

山口真和 プレゼントドローイング更新しました


1枚ドローイングが仕上がったのでアップします。
会場で展示する作品はそれぞれある方向性を持たせとうと作っていますが、
ドローイングではそれらのもととなった、イメージの全体像のようなものを描いています。
詳細は以下のページに。
http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/05/blog-post_26.html

山の中のてんてん






清澄山標高350メートル

じつは、清澄山という独立した山はない。
摩尼山(妙見山)・寶珠山・如意山・ 露地山・金剛山・鷄莽山・獨鈷山・富士山ら清澄寺を取り囲む八山をはじめとした山塊をまとめて清澄山と呼ぶ。


清澄寺は1200年の歴史を誇るお寺だけれど、これらの山は清澄寺の建つもっと前、仏教の伝わるもっと前から信仰の場だった。
もっとずっと前、占いや呪術による信仰の頃から。
鹿や亀の骨や血を用いた儀式を行う場所だったと見られる血溜めの彫りのある平岩だとか、そういう跡が険しい山中に残っているらしい。

お寺を基点に見てしまうと見落としてしまいそうになるけれど、
頂はあっても中心はない。

海から立ち上がるこの山々全体が信仰の場なのだ、
古くから人がそこに行為の場としての小さな点を打ってきた。
清澄寺も日蓮という人間の残した (大きいけれど) 一つの点で

この山塊の中には忘れられた点々がきっとたくさん印されているのだということ。

今ではそれを知っているのは山だけ。

私たちの作るものも、この夏の間、

その点となるように。

2011年7月12日火曜日

何故古美術を見るのか?二人の違い

先日平川君と話をしました。その時に、何故京都の古いお寺を自分たちは一緒に巡っているのかという話題になりました。

私が京都に通ってきた理由は、自分自身の鑑賞眼を信用していなかったためで、歴史的に重要とされているものをみることによって作品を見る力を向上させたいと思ったからです。クオリティを確認したかったのです。

平川君はお寺や仏像などの古美術から感動体験を得るために京都に行っていたと言っていました。感動を重視し、それに負けない感動を自分の作品からも与えられるようにしたいと言っていました。私はそれを尊重します。

しかしながら、私にとってそれは当てはまりません。私は日頃からあまり感動しないタイプの人間なのです。自分の感動した体験をそれほど重要視しません。

同じ物をみてきているのに考えることや感じる事は人それぞれなのだと思いました。



鳥の仏教読みました

「鳥の仏教」中沢新一著 を読みました。
というのはもう、2週間も前の話なんだけれど。
ぜんぜんまとめきらないです。
ほんと、文章馬鹿みたいでつらいし、書いては、このブログの公さに、後悔して、忘れたころにまた書いて、後悔して、でもブログ、かかないと。
制作もそうだし。






「鳥の仏教」中沢新一著
http://www.shinchosha.co.jp/book/365902/








内容書ききらないのでまず
手に取るまでの経緯書きます






前もこんな様なこと書いたけどじぶんはいままで、仏教によるさまざまな慣習は生活に普通にあるけれど
仏教に対して、あまりこれといって、自分の信仰や思い入れを傾けずに生きてきました。
お寺に行くのはとてもすきだし、(この前も善光寺に行って、戒壇めぐりをしてきました&またいった)
おみくじもひくし、お墓のそばに住むと安心します、京都も好き、鎌倉の大仏の腹の中で、ほ、
でも土葬がいいし、幽霊いると思うけど見えないし、輪廻転生は考えていません。






ただ、俗世を離れて
大きなひとつの正しい方法を、絶対に正しいと教えられて、正しいと飲み込んで実践するというイメージから
なんとなく、近寄りがたく、あまり近づき過ぎたくなく思っていて、
(日々の煩悩の中でそれでもいいものをやっていく生活の実践の中にそれぞれ沢山の答えがある、それを切り離してもいみないというような)(それはアートにも思いもします)
(それはアートにもいえてしまうかもしれないと思いつつ、アートの中にある程度属しています)
(アート=日常では絶対ないと思いつつ)
(私は日常を生きてます)
(ハムときゅうりと卵とトマトと軽く茹でたオクラのせた冷やし中華をゆっくり噛んで食べたりすると、その見た目に、食べに、食べることができる存在ということに、ものもののあわさりに、驚愕、これはいったいどうしてここにあるんだろう、こんな姿をした食べ物が存在するようになるまでの私の知らないすべての時間や文化にきもちがおよび、食べていると減っていく見た目の変化の、麺の感じ&クイックさ、と食べがおこなう事ができる、凄いすばらしい世界を生きているんだなあと、おどろきながら、でも最悪な世界になってしまった、日本ついに腐海みたいやで、という気持ちや、犬の腹の感触に寝ぼけて、制作のすべてが今繋がったきがしたり、{これだよ!}{きのせい}またなにもなくてももう人に対しても恥ずかしすぎたり、それよりもなにもなくてもなぜか気持ちたまにつらかったりもありますが、きらっと光ってしまうときもある日常のすべて、悪い時もその時しらないいいものがいっぱいあるという予測 そこに理由や因果はなしでも大丈夫で)
(絵を描くと、思ったことより先に勝手になにかが生まれていくから、それが、おもしろいのや、あとはやっぱり書く瞬間に全然分からないものがその前後になくただ現れるときもたまにあるのでそれに出会いたいな)
(という日常と制作とかと、ふれふれの体)




話しずれました
そんなかんじで
最初は
素直に、
自分にとって未知なる領域を知りたいというスタンスをとれないでいて、
しかしそんな姿勢のまま、
今回の素晴らしいお寺に関わらせてもらえるレジデンス、展示に向かうことは
とっても勿体無い、さみしいことだなあと思っていました。


うーん…
どこかに自分のすっと入り込めるとっかかりはないだろうか…
と考え、




そういえば、「肝心の子供」磯崎憲一郎著
http://www.amazon.co.jp/%E8%82%9D%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%AD%90%E4%BE%9B-%E7%A3%AF%E5%B4%8E-%E6%86%B2%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4309018351
を自分がとても好きな気持ちで混乱させられながら読んだ(変ないい本です)(人間ブッダとその息子、そして孫までの三世代を描いたという小説。)
のを思い出し、ああ、物語としてなら、仏教、入っていけるかなあという気持ちがあり






また、最近再び気になっている高木正勝さんが
「鳥の仏教」解説文、書きました、と言っていて



図書館にレヴィストロース「生のものと火を通したもの」を再び読みたくて探しに行ったら
あ、鳥の仏教、これねー、あって、
パラパラみたら、


「~~~いきます、トテイン。
 ~~していると達成はあなたから逃げていきます、トテイン。
 ~~~~~~~~~~~~~~~逃げていきます、トテイン。」


                             
などのかんじ。(あとから知るに「トテイン」はヤマウズラの鳴き声、「逃げていく」という意味の音)


 ?
へんだなー 
よめるかも、で、手に取りました。






よめました。












「鳥のダルマの素晴らしい花環」という、チベット民衆の間で語り継がれてきた、仏教の経典と
神話といった形で同じくチベット民衆の間で物語られてきた「のどぐろ鳥の物語」
あともうひとつ、それらを日本語訳で紹介しています。


私の中途半端に紹介になってしまうので、本書自体が短いのでよろしければ一読していただけたらとおもいます、おもしろかったです




それら物語の根底にあるチベット民の中に普通にあった


・現実と神話の間を行ったりきたりする思考
・過去生の記憶\時間と空間が融合する神話的思考の母型

・(先祖の時間/夢の時間/神話の時間 )という共通の基体で人の心と動物の心が同様に繋がることができる場所
・神話の時間、先祖の時間の中では人と動物はひとつ、人の先祖は動物の姿


それら共通の基体は
普通の現実状態では人間の現実世界の表面には出てくることはないが
現実に潜在下にあって絶え間ない活動を続けている。


夢見ている瞬間、神話が語られる瞬間、人と動物、過去未来に共通の基体が表面に現れてくる
アートもそういう、なんかわかんないけどうごめいている現実世界で潜在下にある、ことごとを
見えるようにする
そこまで潜っていって
スクリーンに映し出すような(これは大学生のときに中沢新一さんが講義でおっしゃっていた)
役割を担っている
それをいうと、それも
宗教と構造的に、遠くないものだなあと思いました
(芸術が宗教の解説ではなく、両者とも、普段の知覚で理解しきれない現実世界の状況や心の奥のものを潜って、取り出して、スクリーンに映写するように(神話を語るように)、現実世界からも見える、理解できる形にする




「神話的思考は、人類の精神活動の強大なジャンル、
現実世界の出来事の意味を理解するために古代人が必要とした思考法なのである。」














あと、
 経典の内容を言っている鳥たちの会話を読んで



仏教の教えとは


因果的な考え方だなあと、感じました。




~すれば、~になる。
という因果的な考え方。






それが生活を律していく規範になるとともに(~すれば、最悪なことになってしまう / ~すれば、よくなる)
なぜ、こんな、生まれたら死ななきゃいけない(~たら、~になる)しくみなわけ、
(生まれる、という能動も、死ぬ、という能動も自分の自由意志による行為を超えている)
というわけのわかんない状態に既にある中での
なぜ どうしたらいいのか、というのに対応した因果的な思考法が、行動法が、仏教の教えには描かれていて






~であるのは、~したからであって、~すれば、~になる。






という、
理解(なぜ)を超えた現実の状況、自由ではない状況(~である)を
自己の能動の自由の及ぶ範囲、理解の及ぶ範囲(~したからであって)(~すれば)の行為によって
変化させる(~になる)(変化を、変化してしまうではなく、自ら変化させると理解できるようにする)


その最たる状況が輪廻を解脱することだという教えなんだ仏教と、読書時私はぼんやりと理解しました。










でもぜんぜんわからない、多分ぜんぜん分かってないです
わからないをためます。わかったきにならないで。わからないを持続します。




私は~すると、~なる
より
~する、~する、~する
~なってる、~なってる、~なってる(なぜかはわかりません)(どのようにかはわかろうとすることはできる)
のほうが親しんでいるので、因果的思考法は、いまいち、なじまないけれど。



予測と共にある因果的な考え方と

ただ起こったことごとを、因果では計らずに、それぞれ見る考え方両方を


それらぜんぶかかえながら、ぼろぼろおとすんだけど、かかえながら、





 これからしるいましらない仏教の様々、
そこにもきっと、人間として、反応できる、おもしろさが、重要さが、沢山あるんだろうと感じています。
たのしみ





2011年7月10日日曜日

残月


今回 舞わせて頂く曲は

 「 残月 」という曲です



  磯辺の松に 葉隠れて

    沖の方へと入る月の

      光や夢の世を早う


    覚めて真如の明らけき

      月の都に住むやらん

      今は伝手だに朧夜の

月日ばかりはめぐり来て





この世を去ってしまったあなたは

  迷うことのない月の都に住んでいるが

残された我が身は たよりもおぼろで

  いたずらに 月日ばかりが過ぎてゆく・・・


落ちる 篇

昨日はブログ更新しながら寝てしまって、いわゆる寝落ちでした。
なので月曜日に更新しております。 
尾家杏奈です。

この「落ちる」という言葉を覚えたのは中学生の頃、パソコンルームでチャットをしていた時でした。

>そろそろ落ちまーす^^

という言葉で大体の人はチャットから出て行きます。
この「落ちる」にはチャットという仮想空間から現実世界へ戻るという意味がこめられているのでしょうね。
それこそチャットの世界では日常的に使っていた言葉でしたが、チャットをしなくなった今となってはあまり使う機会も無い言葉になってしまいました。


「落ちる」
「眠りに落ちる」
「地獄へ堕ちる」
「堕落する」
「落下するパラシュート」

落ちるということは上と下を意識することです。
例えば現実という浮遊空間から眠りで意識の下層までおちること、例えば天国と地獄の上下関係、例えば空と地をパラシュートで行き来すること・・・


清澄寺もですが、京都、奈良にある数多くのお寺も山の上にあります。
このことは、お寺という存在にある種の別次元性を与えていると思います。
上から下に上がることによってちがう何ものかの世界に移行するのです。
背の低い犬は高い足のテーブルの上に乗ったフライドチキンが見えません。
それを見るには同じくらいの高さのいすが必要です。

というわけで、アートが山に登ることもそんな別次元が見えるような展覧会にしたいと思います。

2011年7月9日土曜日

むむ。。

蒸し暑い日が続きますね。藤野です。
日に日に夏がやる気を出してきた感じですね。
そういえば、、かつて日本には二十四節・七十ニ候という暦があり
一年が5日ごとに移り変わるという考えがあったそうです。

何だか一年の厚みが違って感じるようですね。

その自然に対する繊細な視線は今、存在してるのでしょうか。

無くなってしまったという見方もできますが
個人的にはかたちを変えて存在してるのだと思っています。

あまり現在に対して否定的になるのも面白くないので、
周りを取り巻く情報やシステムに対してきちんと想像力を働かせることが
自分たちに出来ることなのでしょう。。。


・ドローイングアップしました。

2011年7月7日木曜日

プレスリリース!!

今、最後のプレスリリースに追われています。

せっかくここまで、みんなで作り上げてきた展覧会だから出来る限り多くの人に見ていただきたい。
遠くて都心の方など来づらいとは思いますが、作家一同東京では見られない気合いの入った展示をお見せするので、お誘い合わせのうえお越しいただけたら幸いです。


あと、プレス希望の方は、下記までご連絡ください。
art_yama_noboru@yahoo.co.jp

2011年7月6日水曜日

近況報告

こんにちは千ヶ崎慶一です。最近は展示の機材を集めています。大掛かりな映像インスタレーションにする予定なので楽しみです。

最近暑くなってきて季節が変わったことを実感します。人生80年だとするとこの感覚を味わうのはあと54回という事になります。永遠に続くと思いがちですがあと54回しかこの感覚は味わえません。残された時間が少ないと感じます。幻の様なものだとも言えます。

それでは自分がアートで何かを成し遂げるためにはどうすれば良いのか?勉強する時間も必要だし制作する時間も必要です。そこまで焦る事は無いとは思いますが、効率を考えた生活スタイルを組む必要があると考えます。そして戦略と戦術が必要です。

幻なのかもしれませんが、そのなかを冒険してゆきます。

2011年7月4日月曜日

地唄舞とは

地唄舞 ( じうたまい )は 日本舞踊の一つで

上方舞( かみがたまい )とも呼ばれ 

江戸時代に 上方で発生しました


地唄とは その地の歌という意味で

最古の三味線音楽とも言われています



地唄の伴奏に合わせて舞う地唄舞

座敷で 蝋燭の灯りだけで 舞われ


能を基にした動きは 簡潔でありながら

内面を より印象的に表現していきます




もともと 私は 

日本舞踊( 歌舞伎舞踊 )をやっていたのですが

その中で 何かもう少しシンプルな動きで


より普遍的なものを 追求できないかと思い

そこから 地唄舞に行き着きました



今 舞は 私にとって

普遍的なものに近づく もっとも有効な手段です



今回の企画では 

様々なアーティストの方々の表現に触れる中で


そのような 何か共通に 共有できるものを

見つけていけたらと思っています



さみ八


2011年7月2日土曜日

ドローイング作品

土曜日担当 尾家杏奈です。

この間のちがくんたちのブログ、楽しく拝見しました。
ちがくんすごい太鼓が似合ってますね。

現地での広報活動ありがとうございます。
近畿圏もできる限りがんばります!



プレゼント作品18
作者 尾家杏奈
タイトル 「瞑想する人」
制作年 2011
サイン あり 






















プレゼント作品19
作者 尾家杏奈
タイトル 「瞑想する人」

制作年 2011
サイン あり 

入山の前に

久しぶりの更新になってしまいすいません。藤野です。

清澄での滞在が近づき、自分自身の様々な心情の変化に気づかされます。
今までギャラリーのような美術作品を鑑賞することに特化した空間で
作品を展開してきた自分にとっては、清澄寺で展示をすることに大きな意味を感じずにはいられません。

場所の文脈に対して自分の作品がどのような呼応をするのか。

これはこの先制作を続ける上で考え続けなければいけないことです。


ホワイトキューブはある種、社会(または特定の場所)との断絶を好む性質があり
そうすることでアートが発展してきたところはありますが

そのスピード感の中で失われたものが沢山あります。


決して同時代的なものとしてパッケージングされることなく

もの凄く長いスパンで見て、自分たちの時代を構成しているもの。

そうした価値観を消費とは別のかたちで捉え、見直す必要があるのでしょう。



今回集まったアーティスト6人はその機会に恵まれました。


僕達がやろうとしてることのスピード感はとても遅いものだと思います。

言葉を交わし、土地に触れ、作品をつくる。


その関係の中に『アート』を見るのです。







(まとめすぎたか。)