自己紹介

自分の写真
※恐れ入りますが、企画者もアーティストのため至らない点が多々あるかと思います。ご意見、ご要望等ございましたら、なんなりとお申し付けください。

2011年7月12日火曜日

鳥の仏教読みました

「鳥の仏教」中沢新一著 を読みました。
というのはもう、2週間も前の話なんだけれど。
ぜんぜんまとめきらないです。
ほんと、文章馬鹿みたいでつらいし、書いては、このブログの公さに、後悔して、忘れたころにまた書いて、後悔して、でもブログ、かかないと。
制作もそうだし。






「鳥の仏教」中沢新一著
http://www.shinchosha.co.jp/book/365902/








内容書ききらないのでまず
手に取るまでの経緯書きます






前もこんな様なこと書いたけどじぶんはいままで、仏教によるさまざまな慣習は生活に普通にあるけれど
仏教に対して、あまりこれといって、自分の信仰や思い入れを傾けずに生きてきました。
お寺に行くのはとてもすきだし、(この前も善光寺に行って、戒壇めぐりをしてきました&またいった)
おみくじもひくし、お墓のそばに住むと安心します、京都も好き、鎌倉の大仏の腹の中で、ほ、
でも土葬がいいし、幽霊いると思うけど見えないし、輪廻転生は考えていません。






ただ、俗世を離れて
大きなひとつの正しい方法を、絶対に正しいと教えられて、正しいと飲み込んで実践するというイメージから
なんとなく、近寄りがたく、あまり近づき過ぎたくなく思っていて、
(日々の煩悩の中でそれでもいいものをやっていく生活の実践の中にそれぞれ沢山の答えがある、それを切り離してもいみないというような)(それはアートにも思いもします)
(それはアートにもいえてしまうかもしれないと思いつつ、アートの中にある程度属しています)
(アート=日常では絶対ないと思いつつ)
(私は日常を生きてます)
(ハムときゅうりと卵とトマトと軽く茹でたオクラのせた冷やし中華をゆっくり噛んで食べたりすると、その見た目に、食べに、食べることができる存在ということに、ものもののあわさりに、驚愕、これはいったいどうしてここにあるんだろう、こんな姿をした食べ物が存在するようになるまでの私の知らないすべての時間や文化にきもちがおよび、食べていると減っていく見た目の変化の、麺の感じ&クイックさ、と食べがおこなう事ができる、凄いすばらしい世界を生きているんだなあと、おどろきながら、でも最悪な世界になってしまった、日本ついに腐海みたいやで、という気持ちや、犬の腹の感触に寝ぼけて、制作のすべてが今繋がったきがしたり、{これだよ!}{きのせい}またなにもなくてももう人に対しても恥ずかしすぎたり、それよりもなにもなくてもなぜか気持ちたまにつらかったりもありますが、きらっと光ってしまうときもある日常のすべて、悪い時もその時しらないいいものがいっぱいあるという予測 そこに理由や因果はなしでも大丈夫で)
(絵を描くと、思ったことより先に勝手になにかが生まれていくから、それが、おもしろいのや、あとはやっぱり書く瞬間に全然分からないものがその前後になくただ現れるときもたまにあるのでそれに出会いたいな)
(という日常と制作とかと、ふれふれの体)




話しずれました
そんなかんじで
最初は
素直に、
自分にとって未知なる領域を知りたいというスタンスをとれないでいて、
しかしそんな姿勢のまま、
今回の素晴らしいお寺に関わらせてもらえるレジデンス、展示に向かうことは
とっても勿体無い、さみしいことだなあと思っていました。


うーん…
どこかに自分のすっと入り込めるとっかかりはないだろうか…
と考え、




そういえば、「肝心の子供」磯崎憲一郎著
http://www.amazon.co.jp/%E8%82%9D%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%AD%90%E4%BE%9B-%E7%A3%AF%E5%B4%8E-%E6%86%B2%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4309018351
を自分がとても好きな気持ちで混乱させられながら読んだ(変ないい本です)(人間ブッダとその息子、そして孫までの三世代を描いたという小説。)
のを思い出し、ああ、物語としてなら、仏教、入っていけるかなあという気持ちがあり






また、最近再び気になっている高木正勝さんが
「鳥の仏教」解説文、書きました、と言っていて



図書館にレヴィストロース「生のものと火を通したもの」を再び読みたくて探しに行ったら
あ、鳥の仏教、これねー、あって、
パラパラみたら、


「~~~いきます、トテイン。
 ~~していると達成はあなたから逃げていきます、トテイン。
 ~~~~~~~~~~~~~~~逃げていきます、トテイン。」


                             
などのかんじ。(あとから知るに「トテイン」はヤマウズラの鳴き声、「逃げていく」という意味の音)


 ?
へんだなー 
よめるかも、で、手に取りました。






よめました。












「鳥のダルマの素晴らしい花環」という、チベット民衆の間で語り継がれてきた、仏教の経典と
神話といった形で同じくチベット民衆の間で物語られてきた「のどぐろ鳥の物語」
あともうひとつ、それらを日本語訳で紹介しています。


私の中途半端に紹介になってしまうので、本書自体が短いのでよろしければ一読していただけたらとおもいます、おもしろかったです




それら物語の根底にあるチベット民の中に普通にあった


・現実と神話の間を行ったりきたりする思考
・過去生の記憶\時間と空間が融合する神話的思考の母型

・(先祖の時間/夢の時間/神話の時間 )という共通の基体で人の心と動物の心が同様に繋がることができる場所
・神話の時間、先祖の時間の中では人と動物はひとつ、人の先祖は動物の姿


それら共通の基体は
普通の現実状態では人間の現実世界の表面には出てくることはないが
現実に潜在下にあって絶え間ない活動を続けている。


夢見ている瞬間、神話が語られる瞬間、人と動物、過去未来に共通の基体が表面に現れてくる
アートもそういう、なんかわかんないけどうごめいている現実世界で潜在下にある、ことごとを
見えるようにする
そこまで潜っていって
スクリーンに映し出すような(これは大学生のときに中沢新一さんが講義でおっしゃっていた)
役割を担っている
それをいうと、それも
宗教と構造的に、遠くないものだなあと思いました
(芸術が宗教の解説ではなく、両者とも、普段の知覚で理解しきれない現実世界の状況や心の奥のものを潜って、取り出して、スクリーンに映写するように(神話を語るように)、現実世界からも見える、理解できる形にする




「神話的思考は、人類の精神活動の強大なジャンル、
現実世界の出来事の意味を理解するために古代人が必要とした思考法なのである。」














あと、
 経典の内容を言っている鳥たちの会話を読んで



仏教の教えとは


因果的な考え方だなあと、感じました。




~すれば、~になる。
という因果的な考え方。






それが生活を律していく規範になるとともに(~すれば、最悪なことになってしまう / ~すれば、よくなる)
なぜ、こんな、生まれたら死ななきゃいけない(~たら、~になる)しくみなわけ、
(生まれる、という能動も、死ぬ、という能動も自分の自由意志による行為を超えている)
というわけのわかんない状態に既にある中での
なぜ どうしたらいいのか、というのに対応した因果的な思考法が、行動法が、仏教の教えには描かれていて






~であるのは、~したからであって、~すれば、~になる。






という、
理解(なぜ)を超えた現実の状況、自由ではない状況(~である)を
自己の能動の自由の及ぶ範囲、理解の及ぶ範囲(~したからであって)(~すれば)の行為によって
変化させる(~になる)(変化を、変化してしまうではなく、自ら変化させると理解できるようにする)


その最たる状況が輪廻を解脱することだという教えなんだ仏教と、読書時私はぼんやりと理解しました。










でもぜんぜんわからない、多分ぜんぜん分かってないです
わからないをためます。わかったきにならないで。わからないを持続します。




私は~すると、~なる
より
~する、~する、~する
~なってる、~なってる、~なってる(なぜかはわかりません)(どのようにかはわかろうとすることはできる)
のほうが親しんでいるので、因果的思考法は、いまいち、なじまないけれど。



予測と共にある因果的な考え方と

ただ起こったことごとを、因果では計らずに、それぞれ見る考え方両方を


それらぜんぶかかえながら、ぼろぼろおとすんだけど、かかえながら、





 これからしるいましらない仏教の様々、
そこにもきっと、人間として、反応できる、おもしろさが、重要さが、沢山あるんだろうと感じています。
たのしみ





0 件のコメント:

コメントを投稿