みんなちゃくちゃくと作品出来上がっていってそうですね!
もう、出来てるんですか…!
私はちょっと、実はまだまだ不安でいっぱいです…。
作り続けています。
インスタレーションを考えていますが、
インスタレーションの、あんまり見た目はすっきりしてないやつを
展示場所にいないで、作っていくのは初めてなので
うまく関わっていけるのかな…という不安があります。
早く現地に行きたいです。という気持ちと、まだまだ準備が足りない…!という気持ちです。
折角皆と過ごせる時間をひとり殺伐としたくないです~
しちゃうかな…
多分現地での物物や事々との出会いが重要になってくるので
とかいいつつ、カメラも持って、寝袋ももって、日焼け止めももって、マスクもって、サングラスもって、ハードディスクも持って
日記書こう~ 塩つくりたい~ 毎日あの作品すすめよう~ 散歩しよう~
など楽しむきまんまんです
私、海の近くに滞在したこと、生まれてこの方ないです。
またはなしがずれてしまった…
そのインスタレーションに関しては
自分の気持ちの中で、すっきりしている部分をしっかり持って、
ごちゃごちゃにのぞめるように頑張ります。
とまとまったかと思いきややっと本題です。
小さいドローイングです。またプレゼントドローイングのほうにもアップします。
今回の展示作品のうちのひとつに
星の井戸についての作品を考えています。
星の井戸とは
千年以上前から使われている井戸で、井戸の中に星影をやどすと言われています。
というものだそうです。
実際物との直接の関わりなくプランを勧めているので多分自分の誤読もあるかもしれないと思いますが…。これもまた現地でどうなるか、不安と楽しみです。
井戸の底の水面に星が映るのを見る時
近い星と遠い星の光が同時に見える今の瞬間に、遠い過去からと近い過去までの光景を同時に同じ平面上に見ているということが起きています。
深い井戸にコインを投げると願いがかなうという伝承は世界各国に残っています。
水面ではない乾いた井戸底に水することで
水面として空映す(光年先、過去の光景)
&何かによってそこに今はないコイン跡浮かび上がる(過去の祈りの跡)
星みたいな祈りの跡が、平面にあらわれます。
お金を投げると願いがかなう、その願いは
お金で交換できない願いです。(お金と交換できる願いなら、そこにお金を投げ入れないで、直接交換するから)
資本主義の流れに乗らなくなっちゃう、増殖の欲望を持たない
今後何とも交換されない、
祈りのツールという特殊な
お金の、ただきらきらだとか、でもいくらだろうって見えるよ
祈りにいくらまでなら出せるんだろう、量じゃないけど、量があらゆるものと変換可能に見える
どこまで「祈る行為」の力を信じているんだろう
500円玉と1円玉の存在ぜんぜん違う
色々含んだ
お寺でのお金の
見え方についても、言及していこうと思っている作品です。
自己紹介
2011年7月27日水曜日
2011年7月12日火曜日
鳥の仏教読みました
「鳥の仏教」中沢新一著 を読みました。
というのはもう、2週間も前の話なんだけれど。
ぜんぜんまとめきらないです。
ほんと、文章馬鹿みたいでつらいし、書いては、このブログの公さに、後悔して、忘れたころにまた書いて、後悔して、でもブログ、かかないと。
制作もそうだし。
「鳥の仏教」中沢新一著
http://www.shinchosha.co.jp/book/365902/
内容書ききらないのでまず
手に取るまでの経緯書きます
前もこんな様なこと書いたけどじぶんはいままで、仏教によるさまざまな慣習は生活に普通にあるけれど
仏教に対して、あまりこれといって、自分の信仰や思い入れを傾けずに生きてきました。
お寺に行くのはとてもすきだし、(この前も善光寺に行って、戒壇めぐりをしてきました&またいった)
おみくじもひくし、お墓のそばに住むと安心します、京都も好き、鎌倉の大仏の腹の中で、ほ、
でも土葬がいいし、幽霊いると思うけど見えないし、輪廻転生は考えていません。
ただ、俗世を離れて
大きなひとつの正しい方法を、絶対に正しいと教えられて、正しいと飲み込んで実践するというイメージから
なんとなく、近寄りがたく、あまり近づき過ぎたくなく思っていて、
(日々の煩悩の中でそれでもいいものをやっていく生活の実践の中にそれぞれ沢山の答えがある、それを切り離してもいみないというような)(それはアートにも思いもします)
(それはアートにもいえてしまうかもしれないと思いつつ、アートの中にある程度属しています)
(アート=日常では絶対ないと思いつつ)
(私は日常を生きてます)
(ハムときゅうりと卵とトマトと軽く茹でたオクラのせた冷やし中華をゆっくり噛んで食べたりすると、その見た目に、食べに、食べることができる存在ということに、ものもののあわさりに、驚愕、これはいったいどうしてここにあるんだろう、こんな姿をした食べ物が存在するようになるまでの私の知らないすべての時間や文化にきもちがおよび、食べていると減っていく見た目の変化の、麺の感じ&クイックさ、と食べがおこなう事ができる、凄いすばらしい世界を生きているんだなあと、おどろきながら、でも最悪な世界になってしまった、日本ついに腐海みたいやで、という気持ちや、犬の腹の感触に寝ぼけて、制作のすべてが今繋がったきがしたり、{これだよ!}{きのせい}またなにもなくてももう人に対しても恥ずかしすぎたり、それよりもなにもなくてもなぜか気持ちたまにつらかったりもありますが、きらっと光ってしまうときもある日常のすべて、悪い時もその時しらないいいものがいっぱいあるという予測 そこに理由や因果はなしでも大丈夫で)
(絵を描くと、思ったことより先に勝手になにかが生まれていくから、それが、おもしろいのや、あとはやっぱり書く瞬間に全然分からないものがその前後になくただ現れるときもたまにあるのでそれに出会いたいな)
(という日常と制作とかと、ふれふれの体)
話しずれました
そんなかんじで
最初は
素直に、
自分にとって未知なる領域を知りたいというスタンスをとれないでいて、
しかしそんな姿勢のまま、
今回の素晴らしいお寺に関わらせてもらえるレジデンス、展示に向かうことは
とっても勿体無い、さみしいことだなあと思っていました。
うーん…
どこかに自分のすっと入り込めるとっかかりはないだろうか…
と考え、
そういえば、「肝心の子供」磯崎憲一郎著
http://www.amazon.co.jp/%E8%82%9D%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%AD%90%E4%BE%9B-%E7%A3%AF%E5%B4%8E-%E6%86%B2%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4309018351
を自分がとても好きな気持ちで混乱させられながら読んだ(変ないい本です)(人間ブッダとその息子、そして孫までの三世代を描いたという小説。)
のを思い出し、ああ、物語としてなら、仏教、入っていけるかなあという気持ちがあり
また、最近再び気になっている高木正勝さんが
「鳥の仏教」解説文、書きました、と言っていて
図書館にレヴィストロース「生のものと火を通したもの」を再び読みたくて探しに行ったら
あ、鳥の仏教、これねー、あって、
パラパラみたら、
「~~~いきます、トテイン。
~~していると達成はあなたから逃げていきます、トテイン。
~~~~~~~~~~~~~~~逃げていきます、トテイン。」
などのかんじ。(あとから知るに「トテイン」はヤマウズラの鳴き声、「逃げていく」という意味の音)
?
へんだなー
よめるかも、で、手に取りました。
よめました。
「鳥のダルマの素晴らしい花環」という、チベット民衆の間で語り継がれてきた、仏教の経典と
神話といった形で同じくチベット民衆の間で物語られてきた「のどぐろ鳥の物語」
あともうひとつ、それらを日本語訳で紹介しています。
私の中途半端に紹介になってしまうので、本書自体が短いのでよろしければ一読していただけたらとおもいます、おもしろかったです
それら物語の根底にあるチベット民の中に普通にあった
・現実と神話の間を行ったりきたりする思考
・過去生の記憶\時間と空間が融合する神話的思考の母型
・(先祖の時間/夢の時間/神話の時間 )という共通の基体で人の心と動物の心が同様に繋がることができる場所
・神話の時間、先祖の時間の中では人と動物はひとつ、人の先祖は動物の姿
それら共通の基体は
普通の現実状態では人間の現実世界の表面には出てくることはないが
現実に潜在下にあって絶え間ない活動を続けている。
夢見ている瞬間、神話が語られる瞬間、人と動物、過去未来に共通の基体が表面に現れてくる
アートもそういう、なんかわかんないけどうごめいている現実世界で潜在下にある、ことごとを
見えるようにする
そこまで潜っていって)
スクリーンに映し出すような(これは大学生のときに中沢新一さんが講義でおっしゃっていた)
役割を担っている
それをいうと、それも
宗教と構造的に、遠くないものだなあと思いました
(芸術が宗教の解説ではなく、両者とも、普段の知覚で理解しきれない現実世界の状況や心の奥のものを潜って、取り出して、スクリーンに映写するように(神話を語るように)、現実世界からも見える、理解できる形にする
「神話的思考は、人類の精神活動の強大なジャンル、
現実世界の出来事の意味を理解するために古代人が必要とした思考法なのである。」
あと、
経典の内容を言っている鳥たちの会話を読んで
仏教の教えとは
因果的な考え方だなあと、感じました。
~すれば、~になる。
という因果的な考え方。
それが生活を律していく規範になるとともに(~すれば、最悪なことになってしまう / ~すれば、よくなる)
なぜ、こんな、生まれたら死ななきゃいけない(~たら、~になる)しくみなわけ、
(生まれる、という能動も、死ぬ、という能動も自分の自由意志による行為を超えている)
というわけのわかんない状態に既にある中での
なぜ どうしたらいいのか、というのに対応した因果的な思考法が、行動法が、仏教の教えには描かれていて
~であるのは、~したからであって、~すれば、~になる。
という、
理解(なぜ)を超えた現実の状況、自由ではない状況(~である)を
自己の能動の自由の及ぶ範囲、理解の及ぶ範囲(~したからであって)(~すれば)の行為によって
変化させる(~になる)(変化を、変化してしまうではなく、自ら変化させると理解できるようにする)
その最たる状況が輪廻を解脱することだという教えなんだ仏教と、読書時私はぼんやりと理解しました。
でもぜんぜんわからない、多分ぜんぜん分かってないです
わからないをためます。わかったきにならないで。わからないを持続します。
私は~すると、~なる
より
~する、~する、~する
~なってる、~なってる、~なってる(なぜかはわかりません)(どのようにかはわかろうとすることはできる)
のほうが親しんでいるので、因果的思考法は、いまいち、なじまないけれど。
予測と共にある因果的な考え方と
ただ起こったことごとを、因果では計らずに、それぞれ見る考え方両方を
それらぜんぶかかえながら、ぼろぼろおとすんだけど、かかえながら、
これからしるいましらない仏教の様々、
そこにもきっと、人間として、反応できる、おもしろさが、重要さが、沢山あるんだろうと感じています。
たのしみ
というのはもう、2週間も前の話なんだけれど。
ぜんぜんまとめきらないです。
ほんと、文章馬鹿みたいでつらいし、書いては、このブログの公さに、後悔して、忘れたころにまた書いて、後悔して、でもブログ、かかないと。
制作もそうだし。
「鳥の仏教」中沢新一著
http://www.shinchosha.co.jp/book/365902/
内容書ききらないのでまず
手に取るまでの経緯書きます
前もこんな様なこと書いたけどじぶんはいままで、仏教によるさまざまな慣習は生活に普通にあるけれど
仏教に対して、あまりこれといって、自分の信仰や思い入れを傾けずに生きてきました。
お寺に行くのはとてもすきだし、(この前も善光寺に行って、戒壇めぐりをしてきました&またいった)
おみくじもひくし、お墓のそばに住むと安心します、京都も好き、鎌倉の大仏の腹の中で、ほ、
でも土葬がいいし、幽霊いると思うけど見えないし、輪廻転生は考えていません。
ただ、俗世を離れて
大きなひとつの正しい方法を、絶対に正しいと教えられて、正しいと飲み込んで実践するというイメージから
なんとなく、近寄りがたく、あまり近づき過ぎたくなく思っていて、
(日々の煩悩の中でそれでもいいものをやっていく生活の実践の中にそれぞれ沢山の答えがある、それを切り離してもいみないというような)(それはアートにも思いもします)
(それはアートにもいえてしまうかもしれないと思いつつ、アートの中にある程度属しています)
(アート=日常では絶対ないと思いつつ)
(私は日常を生きてます)
(ハムときゅうりと卵とトマトと軽く茹でたオクラのせた冷やし中華をゆっくり噛んで食べたりすると、その見た目に、食べに、食べることができる存在ということに、ものもののあわさりに、驚愕、これはいったいどうしてここにあるんだろう、こんな姿をした食べ物が存在するようになるまでの私の知らないすべての時間や文化にきもちがおよび、食べていると減っていく見た目の変化の、麺の感じ&クイックさ、と食べがおこなう事ができる、凄いすばらしい世界を生きているんだなあと、おどろきながら、でも最悪な世界になってしまった、日本ついに腐海みたいやで、という気持ちや、犬の腹の感触に寝ぼけて、制作のすべてが今繋がったきがしたり、{これだよ!}{きのせい}またなにもなくてももう人に対しても恥ずかしすぎたり、それよりもなにもなくてもなぜか気持ちたまにつらかったりもありますが、きらっと光ってしまうときもある日常のすべて、悪い時もその時しらないいいものがいっぱいあるという予測 そこに理由や因果はなしでも大丈夫で)
(絵を描くと、思ったことより先に勝手になにかが生まれていくから、それが、おもしろいのや、あとはやっぱり書く瞬間に全然分からないものがその前後になくただ現れるときもたまにあるのでそれに出会いたいな)
(という日常と制作とかと、ふれふれの体)
話しずれました
そんなかんじで
最初は
素直に、
自分にとって未知なる領域を知りたいというスタンスをとれないでいて、
しかしそんな姿勢のまま、
今回の素晴らしいお寺に関わらせてもらえるレジデンス、展示に向かうことは
とっても勿体無い、さみしいことだなあと思っていました。
うーん…
どこかに自分のすっと入り込めるとっかかりはないだろうか…
と考え、
そういえば、「肝心の子供」磯崎憲一郎著
http://www.amazon.co.jp/%E8%82%9D%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%AD%90%E4%BE%9B-%E7%A3%AF%E5%B4%8E-%E6%86%B2%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4309018351
を自分がとても好きな気持ちで混乱させられながら読んだ(変ないい本です)(人間ブッダとその息子、そして孫までの三世代を描いたという小説。)
のを思い出し、ああ、物語としてなら、仏教、入っていけるかなあという気持ちがあり
また、最近再び気になっている高木正勝さんが
「鳥の仏教」解説文、書きました、と言っていて
図書館にレヴィストロース「生のものと火を通したもの」を再び読みたくて探しに行ったら
あ、鳥の仏教、これねー、あって、
パラパラみたら、
「~~~いきます、トテイン。
~~していると達成はあなたから逃げていきます、トテイン。
~~~~~~~~~~~~~~~逃げていきます、トテイン。」
などのかんじ。(あとから知るに「トテイン」はヤマウズラの鳴き声、「逃げていく」という意味の音)
?
へんだなー
よめるかも、で、手に取りました。
よめました。
「鳥のダルマの素晴らしい花環」という、チベット民衆の間で語り継がれてきた、仏教の経典と
神話といった形で同じくチベット民衆の間で物語られてきた「のどぐろ鳥の物語」
あともうひとつ、それらを日本語訳で紹介しています。
私の中途半端に紹介になってしまうので、本書自体が短いのでよろしければ一読していただけたらとおもいます、おもしろかったです
それら物語の根底にあるチベット民の中に普通にあった
・現実と神話の間を行ったりきたりする思考
・過去生の記憶\時間と空間が融合する神話的思考の母型
・(先祖の時間/夢の時間/神話の時間 )という共通の基体で人の心と動物の心が同様に繋がることができる場所
・神話の時間、先祖の時間の中では人と動物はひとつ、人の先祖は動物の姿
それら共通の基体は
普通の現実状態では人間の現実世界の表面には出てくることはないが
現実に潜在下にあって絶え間ない活動を続けている。
夢見ている瞬間、神話が語られる瞬間、人と動物、過去未来に共通の基体が表面に現れてくる
アートもそういう、なんかわかんないけどうごめいている現実世界で潜在下にある、ことごとを
見えるようにする
そこまで潜っていって)
スクリーンに映し出すような(これは大学生のときに中沢新一さんが講義でおっしゃっていた)
役割を担っている
それをいうと、それも
宗教と構造的に、遠くないものだなあと思いました
(芸術が宗教の解説ではなく、両者とも、普段の知覚で理解しきれない現実世界の状況や心の奥のものを潜って、取り出して、スクリーンに映写するように(神話を語るように)、現実世界からも見える、理解できる形にする
「神話的思考は、人類の精神活動の強大なジャンル、
現実世界の出来事の意味を理解するために古代人が必要とした思考法なのである。」
あと、
経典の内容を言っている鳥たちの会話を読んで
仏教の教えとは
因果的な考え方だなあと、感じました。
~すれば、~になる。
という因果的な考え方。
それが生活を律していく規範になるとともに(~すれば、最悪なことになってしまう / ~すれば、よくなる)
なぜ、こんな、生まれたら死ななきゃいけない(~たら、~になる)しくみなわけ、
(生まれる、という能動も、死ぬ、という能動も自分の自由意志による行為を超えている)
というわけのわかんない状態に既にある中での
なぜ どうしたらいいのか、というのに対応した因果的な思考法が、行動法が、仏教の教えには描かれていて
~であるのは、~したからであって、~すれば、~になる。
という、
理解(なぜ)を超えた現実の状況、自由ではない状況(~である)を
自己の能動の自由の及ぶ範囲、理解の及ぶ範囲(~したからであって)(~すれば)の行為によって
変化させる(~になる)(変化を、変化してしまうではなく、自ら変化させると理解できるようにする)
その最たる状況が輪廻を解脱することだという教えなんだ仏教と、読書時私はぼんやりと理解しました。
でもぜんぜんわからない、多分ぜんぜん分かってないです
わからないをためます。わかったきにならないで。わからないを持続します。
私は~すると、~なる
より
~する、~する、~する
~なってる、~なってる、~なってる(なぜかはわかりません)(どのようにかはわかろうとすることはできる)
のほうが親しんでいるので、因果的思考法は、いまいち、なじまないけれど。
予測と共にある因果的な考え方と
ただ起こったことごとを、因果では計らずに、それぞれ見る考え方両方を
それらぜんぶかかえながら、ぼろぼろおとすんだけど、かかえながら、
これからしるいましらない仏教の様々、
そこにもきっと、人間として、反応できる、おもしろさが、重要さが、沢山あるんだろうと感じています。
たのしみ
2011年6月23日木曜日
早寝早起き、夕寝わあ。
いろいろあるけど、なにかこうと、まどっていたら、日付回ってしまいました。
今日は
ナシゴレン作る決意と遂行を、まっすぐにおこなった。
多分生涯でナシゴレン食べたことって、想像の中か、一度か、ゼロしかないけれど。
制作は、色々な道具使ってのドローイングと、プランだし、メモみたいなテキストを赤ペンで書き続けて月、緑色のうさぎ、眼球、地球、天体の影、平面、光の到達、月の引力と地球の自転による潮汐、海面、海中、新月、丸、球、いつのまにか海亀の卵のことをかいていた。
展覧会の本制作につながりそうな、つながらなそうな、素材やアイディアを、自分が手を動かすことで点々と、用意する段階です。
ちょっとあせってもいます。
けど、ひとつひとつずつしか、ないですね。というきもちで毎回ぐっと潜るように気をつける。
最近は半分は気を失っているようなもんじゃないか、という感じの集中が、おもしろい気がしている。というか今までもあったことだと思うけれどそういう風に言葉にした自覚。
自分がいつもおもうのは
自分が脳みそで意識して想像できる範囲のことは、実物が存在して及ぼすすべてに比べて、ほんの少しだと思うから
(想像力というものに対して広がりがないという意味では全くないです)(実物と想像、逆も勿論言える)
できたもの、存在するもの、痕跡に、助けてもらいながら、
反応して、また作って、完成して、見る、見るが作る状況、またひとつ
そういうかんじに、作っていくんじゃないかなとなんとなく思っています。
ひとつひとつ。
でもあせる~なんか、ああ私。
がんばります。
けっこうかいたな
かくことないなあとおもってて、メモから引っ張ってきたテキスト
自分の形にならない信仰みたいなものを感じたできごと、読書のこと、載せておきます。
:::::::::
吉本ばななの『王国~その1~』多分6年ぶり再読。電車。
高校生のときに、ガンガンになりながら読んだことは凄い覚えているが、内容はさっぱり忘れていた。けど、含まれている道徳とか、ゆずれなさとか、恋とかの、規範や、理想が、知らずに自分の中全体に息ずいているのがわかって、ぶわ、一語一句が見逃せなかった。高校生の自分のこと嫌だったし、吉本ばななももう普通くらいの好きさだけれど(たまにてれくさいような、きがしてしまうときすらうまれ)、しかしそれら過去に感謝するような思いの読みだった。
「それからお茶は、売るためにではなくて、きれいなパックにして美しく丁寧に作ることがとても大切だと私はおばあちゃんにたたきこまれた。それは儀式であり、茶とそれを開けて飲む人間の両方に、あるきりっとした心構えを作るのだという。人だけではなくて茶の方にもそれを分かってもらうというのが、おばあちゃんの哲学の真髄だったと思う。」
抜き出して書くのは、そこだけだから、ぜんぜんあれだけど、今回はそこの部分読んだ瞬間に読み進めながらふわーと思ったことを書きます。なので引用しました。勿論他の読む瞬間も本当に見逃せなかったし、この部分が特に、ということでもない。ずっといろいろ。
自分はその主人公の女の子みたいな
敏感さも魔法も持たないけど、
インスタレーションの時の、ほんのすこしの差による絶対的な差、これ!今!とか、違う
って、理由なくなぜかわかる時のこと、思い出した。
絵にもあるね。
その方法はピシッとするだけじゃないピシッと仕方。
空気が変わる瞬間を、作って、それをそのままにするか、しないか選ぶ。
色々言うけど
コンセプトとか言うし、それら本気だけど、
なんだかんだ勘でやってんだな…。
今日素材選びのときの想像の広がりの選択にも感じた。
いつも半分気を失ってるようなものだ。
気を失っているのが悪いのではない。
だからこそなおさら敏感にならないと。
作っている最中の時間。
色んな、自分が出てきて
したいとかやりたいとか、認められたいとか、喜びの種類も色々あってしまうけれど
など
わあつくります
どきどき
今日は
ナシゴレン作る決意と遂行を、まっすぐにおこなった。
多分生涯でナシゴレン食べたことって、想像の中か、一度か、ゼロしかないけれど。
制作は、色々な道具使ってのドローイングと、プランだし、メモみたいなテキストを赤ペンで書き続けて月、緑色のうさぎ、眼球、地球、天体の影、平面、光の到達、月の引力と地球の自転による潮汐、海面、海中、新月、丸、球、いつのまにか海亀の卵のことをかいていた。
展覧会の本制作につながりそうな、つながらなそうな、素材やアイディアを、自分が手を動かすことで点々と、用意する段階です。
ちょっとあせってもいます。
けど、ひとつひとつずつしか、ないですね。というきもちで毎回ぐっと潜るように気をつける。
最近は半分は気を失っているようなもんじゃないか、という感じの集中が、おもしろい気がしている。というか今までもあったことだと思うけれどそういう風に言葉にした自覚。
自分がいつもおもうのは
自分が脳みそで意識して想像できる範囲のことは、実物が存在して及ぼすすべてに比べて、ほんの少しだと思うから
(想像力というものに対して広がりがないという意味では全くないです)(実物と想像、逆も勿論言える)
できたもの、存在するもの、痕跡に、助けてもらいながら、
反応して、また作って、完成して、見る、見るが作る状況、またひとつ
そういうかんじに、作っていくんじゃないかなとなんとなく思っています。
ひとつひとつ。
でもあせる~なんか、ああ私。
がんばります。
けっこうかいたな
かくことないなあとおもってて、メモから引っ張ってきたテキスト
自分の形にならない信仰みたいなものを感じたできごと、読書のこと、載せておきます。
:::::::::
吉本ばななの『王国~その1~』多分6年ぶり再読。電車。
高校生のときに、ガンガンになりながら読んだことは凄い覚えているが、内容はさっぱり忘れていた。けど、含まれている道徳とか、ゆずれなさとか、恋とかの、規範や、理想が、知らずに自分の中全体に息ずいているのがわかって、ぶわ、一語一句が見逃せなかった。高校生の自分のこと嫌だったし、吉本ばななももう普通くらいの好きさだけれど(たまにてれくさいような、きがしてしまうときすらうまれ)、しかしそれら過去に感謝するような思いの読みだった。
「それからお茶は、売るためにではなくて、きれいなパックにして美しく丁寧に作ることがとても大切だと私はおばあちゃんにたたきこまれた。それは儀式であり、茶とそれを開けて飲む人間の両方に、あるきりっとした心構えを作るのだという。人だけではなくて茶の方にもそれを分かってもらうというのが、おばあちゃんの哲学の真髄だったと思う。」
抜き出して書くのは、そこだけだから、ぜんぜんあれだけど、今回はそこの部分読んだ瞬間に読み進めながらふわーと思ったことを書きます。なので引用しました。勿論他の読む瞬間も本当に見逃せなかったし、この部分が特に、ということでもない。ずっといろいろ。
自分はその主人公の女の子みたいな
敏感さも魔法も持たないけど、
インスタレーションの時の、ほんのすこしの差による絶対的な差、これ!今!とか、違う
って、理由なくなぜかわかる時のこと、思い出した。
絵にもあるね。
その方法はピシッとするだけじゃないピシッと仕方。
空気が変わる瞬間を、作って、それをそのままにするか、しないか選ぶ。
色々言うけど
コンセプトとか言うし、それら本気だけど、
なんだかんだ勘でやってんだな…。
今日素材選びのときの想像の広がりの選択にも感じた。
いつも半分気を失ってるようなものだ。
気を失っているのが悪いのではない。
だからこそなおさら敏感にならないと。
作っている最中の時間。
色んな、自分が出てきて
したいとかやりたいとか、認められたいとか、喜びの種類も色々あってしまうけれど
世界に自分の体を通してできることをやらせてもらうだけかも。そこを、見失わないで、つきつめていくのなら、世界はひとつひとつ、受け止める場所を用意してくれていくきがする。
それがむずかしいけれど。
::::::::::::::::::::::::
::::::::::::::::::::::::
など
わあつくります
どきどき
2011年6月14日火曜日
プレゼント作品アップしました。
新作4点アップしました。
象徴的に雨をモチーフとして扱った作品が、学生時代の初期に多くあり
また、実際に雨水をつかった作品も代表作としてあります。
最近は比喩としてではなくて、実際に重力に従って流れ落ちるものとして水を使用する形など。
でも雨あまりすきじゃなくて
晴れがすきだなあかんぜん、と思っていたのですが
最近歩くのが自分の中で結構重要になってきていて
なんか段々、雨の日もかなりすきだなあという実感が五月あたりから、眼球喜ぶ、ばらばらのコーンのちらばりと先端の割れ、黄色と黒の縞棒をがん見の、がん見の、べたって落ちた水塊はコンクリの橋の上から、瞬間魂ふるえる、は一例(ていうかそれはくもりの日だったか)
なぜか何がきっかけか、段々、雨の日もかなり好きになってきています。
放射能含まれてしまっているのにね、と思いつつ。
本当はないはずのもの。
防げない、そしてそれによって存在、なのは、時間とか死ぬとかそういうので十分なのに。
あってはならない状況によって
また、どうしようもなく、新に、雨に対する実感、かわってきてしまっていて
今回の清澄では、そこまで掬いきれるか分からないけれど
雨使うかも分からないし
でも雨について
今ずっと、おもって、描きました。
詳細こちらです
http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/05/blog-post_26.html
自分は
すべてに対して同様に常に働いている、人が晒されつづけてけして防げない、それによって存在もしてしまう、時間の仕組みの比喩みたいなかたちで象徴的に雨をモチーフとして扱った作品が、学生時代の初期に多くあり
また、実際に雨水をつかった作品も代表作としてあります。
最近は比喩としてではなくて、実際に重力に従って流れ落ちるものとして水を使用する形など。
でも雨あまりすきじゃなくて
晴れがすきだなあかんぜん、と思っていたのですが
最近歩くのが自分の中で結構重要になってきていて
なんか段々、雨の日もかなりすきだなあという実感が五月あたりから、眼球喜ぶ、ばらばらのコーンのちらばりと先端の割れ、黄色と黒の縞棒をがん見の、がん見の、べたって落ちた水塊はコンクリの橋の上から、瞬間魂ふるえる、は一例(ていうかそれはくもりの日だったか)
なぜか何がきっかけか、段々、雨の日もかなり好きになってきています。
放射能含まれてしまっているのにね、と思いつつ。
本当はないはずのもの。
防げない、そしてそれによって存在、なのは、時間とか死ぬとかそういうので十分なのに。
あってはならない状況によって
また、どうしようもなく、新に、雨に対する実感、かわってきてしまっていて
今回の清澄では、そこまで掬いきれるか分からないけれど
雨使うかも分からないし
でも雨について
今ずっと、おもって、描きました。
詳細こちらです
http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/05/blog-post_26.html
2011年6月9日木曜日
なんで麦茶注いだのに緑茶の色なんだろうと思ったらそういう色のサングラスなんだね
常飲する飲み物
冬の紅茶から、春のおゆと緑茶を経て水、ここ2、3日から麦茶気味になってきました。
昨日は所要をこなしてしまおうとマクドナルドにいく選択をしてみたら、店内すっごい暑さで、どこか東南アジアらへんの外国のマクドナルドに来たみたいな気持ちになりました。
今、でした文と、だった文を、混ぜてはいけないという小学校のときのさくぶんのるーるをおもいだしました。
長野ももう暑いです。
今日は生まれて初めてサングラスを買いました。
今年は肌の紫外線対策が入念になり、次いで、眼球の危機。大事にしようと思いたったのです。
サングラスの試着というのは不思議なもので
試着してしまうと鏡を見ても、外からの見え方、つまり実際の存在する見え方とは違う、
サングラス越しの濃い色の視覚でしか、自分の姿を確かめられなくて
(単鏡ではどこかを向いてる自分の姿を確かめられないということとも、原理的には同じかもしれません)
見た目を確かめ切れなくて
なんだか大変迷うので
外からの見ためから生まれる見ためではなくて
機能が欲しいんだ、というきもちから、もうめっちゃその機能が見ためから露な、サングラスらしいやつにしようと段々考えて、
でも、いくつも試着しているうちに、
さっき書いた、
サングラス越しの視覚でしかサングラスの自分確かめられないということの、それゆえの決め手なさの連続に、それゆえのぼうっとした視覚の何度もに
だんだんぼうっとしてきて、その、ぼんやりとしか見えない視覚たちに
こんな、ぼやっとした視覚じゃ、外歩いても、外歩くときにつけるのに、外歩いても、楽しさがないかも、困るよ!
という気持ちになって、
じゃあ目が見えたほうがいいなあ、
機能が外見ではなくてもいいかも、機能機能で
サングラスっぽさ、という見た目からはなれた
結局、ほぼ透明の色のサングラスにしました。私は裸眼なので、眼鏡屋さんの店頭でフレームの棒をあっためて冷やして頭の形に調整してくれる&めがねケースを付けてくれるというサービスを感動して受けていた、あとあとしる、これふつうなんですね
帰宅して注いだ麦茶が緑茶みたいな色に見えてぎょ
そういう色に見えるグラスなんだと気づく、
(喜んで着けて家路)
見た目を選ぶ行為において、実際の見た目が見えきらなくて
機能から、行為から入っていく、
守られる目、見える目、でも少し変わる視覚
でも見た目も気にする
この選択の有様が絵に似ているようなきもしたけど
ただ、サングラス買っただけ、それだけがそれ自体としてしっかりあっただけともいえる
そういう風に少し裸眼と違う夏の目をもちました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私事ですが(ぜんぶそうですが)
昨日から大きなバイトがひと段落して、
もうひとつのバイト先で
「今日は学校だったの?」ってきかれ、「いいえ、私は、ニートです!^_^ 」
って思わず言ったけど、フリーターなんですね、これは、言葉を知らない。
バイト最後の一週間で感じたのは、責任について、でした。
やらされているといってしまったら、責任にならない、
それによって守られる心もあるけれど
責任がないといえてしまうのに、実際行為しているから、やはり責任は生まれる
やろうと自分が決めてやっているんだ、と
責任もって、やっていきたい、そうじゃないと逆につらいな。など。
他の展示メンバーの記事、ちゃんと、思いが読み手に伝わってくる文章に、責任感じる文章に、自分は、この人たちとやれてよかったなあと、凄く思い、そして、自分の、ヘロヘロの文章に、とても恥ずかしくなりました
とかくことでへろへろをゆるされようとしているも、書くことにはふくんでしまう
へろへろでへろへろをゆるされようとしてしまう
けどへろへろで書くほうがそのままぶあーとでるから、それを責任持つ、というやりかたも、ありなんだけど
というかそれがいいんじゃないかなと思っています
でも責任持たないよというきもちが、あったなあ
と恥ずかしくなりました。
公にしていく、見た目が生まれていく行為は難しいです
けど自分の行為として、責任もってやるが今思っていること
もう書いたりしないで
制作しますも言わないで
制作するしかない、
という、その、発言とかすべてを超えて制作するしかない、実際に、山を登るしかない
けど色々言葉を決めていくこういう書くことも、やはりそれ自体として、ありうる。
昨夜は11時には寝たいとおもった。過ぎてかいていてねむ、朝起きて書いている、んーすみません
上手く生活のリズムを作ってやっていきたいです。
そういえば、近所にサモトラケのニケみつけました、
むしろ気づかないでいた自分が凄いけど
でもそういうことはそれだけじゃなくて、
例えば昨日、遠くから家々の隙間ぬって自分の家が見える地点を見つけて
初めて裏側から自分の家全体を見たとき、なんとなくぎょっとした、そんなの、なんと、見たことなかったので。
また作品随時アップします。
犬と散歩行ってきます。
冬の紅茶から、春のおゆと緑茶を経て水、ここ2、3日から麦茶気味になってきました。
昨日は所要をこなしてしまおうとマクドナルドにいく選択をしてみたら、店内すっごい暑さで、どこか東南アジアらへんの外国のマクドナルドに来たみたいな気持ちになりました。
今、でした文と、だった文を、混ぜてはいけないという小学校のときのさくぶんのるーるをおもいだしました。
長野ももう暑いです。
今日は生まれて初めてサングラスを買いました。
今年は肌の紫外線対策が入念になり、次いで、眼球の危機。大事にしようと思いたったのです。
サングラスの試着というのは不思議なもので
試着してしまうと鏡を見ても、外からの見え方、つまり実際の存在する見え方とは違う、
サングラス越しの濃い色の視覚でしか、自分の姿を確かめられなくて
(単鏡ではどこかを向いてる自分の姿を確かめられないということとも、原理的には同じかもしれません)
見た目を確かめ切れなくて
なんだか大変迷うので
外からの見ためから生まれる見ためではなくて
機能が欲しいんだ、というきもちから、もうめっちゃその機能が見ためから露な、サングラスらしいやつにしようと段々考えて、
でも、いくつも試着しているうちに、
さっき書いた、
サングラス越しの視覚でしかサングラスの自分確かめられないということの、それゆえの決め手なさの連続に、それゆえのぼうっとした視覚の何度もに
だんだんぼうっとしてきて、その、ぼんやりとしか見えない視覚たちに
こんな、ぼやっとした視覚じゃ、外歩いても、外歩くときにつけるのに、外歩いても、楽しさがないかも、困るよ!
という気持ちになって、
じゃあ目が見えたほうがいいなあ、
機能が外見ではなくてもいいかも、機能機能で
サングラスっぽさ、という見た目からはなれた
結局、ほぼ透明の色のサングラスにしました。私は裸眼なので、眼鏡屋さんの店頭でフレームの棒をあっためて冷やして頭の形に調整してくれる&めがねケースを付けてくれるというサービスを感動して受けていた、あとあとしる、これふつうなんですね
帰宅して注いだ麦茶が緑茶みたいな色に見えてぎょ
そういう色に見えるグラスなんだと気づく、
(喜んで着けて家路)
見た目を選ぶ行為において、実際の見た目が見えきらなくて
機能から、行為から入っていく、
守られる目、見える目、でも少し変わる視覚
でも見た目も気にする
この選択の有様が絵に似ているようなきもしたけど
ただ、サングラス買っただけ、それだけがそれ自体としてしっかりあっただけともいえる
そういう風に少し裸眼と違う夏の目をもちました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私事ですが(ぜんぶそうですが)
昨日から大きなバイトがひと段落して、
もうひとつのバイト先で
「今日は学校だったの?」ってきかれ、「いいえ、私は、ニートです!^_^ 」
って思わず言ったけど、フリーターなんですね、これは、言葉を知らない。
バイト最後の一週間で感じたのは、責任について、でした。
やらされているといってしまったら、責任にならない、
それによって守られる心もあるけれど
責任がないといえてしまうのに、実際行為しているから、やはり責任は生まれる
やろうと自分が決めてやっているんだ、と
責任もって、やっていきたい、そうじゃないと逆につらいな。など。
他の展示メンバーの記事、ちゃんと、思いが読み手に伝わってくる文章に、責任感じる文章に、自分は、この人たちとやれてよかったなあと、凄く思い、そして、自分の、ヘロヘロの文章に、とても恥ずかしくなりました
とかくことでへろへろをゆるされようとしているも、書くことにはふくんでしまう
へろへろでへろへろをゆるされようとしてしまう
けどへろへろで書くほうがそのままぶあーとでるから、それを責任持つ、というやりかたも、ありなんだけど
というかそれがいいんじゃないかなと思っています
でも責任持たないよというきもちが、あったなあ
と恥ずかしくなりました。
公にしていく、見た目が生まれていく行為は難しいです
けど自分の行為として、責任もってやるが今思っていること
もう書いたりしないで
制作しますも言わないで
制作するしかない、
という、その、発言とかすべてを超えて制作するしかない、実際に、山を登るしかない
けど色々言葉を決めていくこういう書くことも、やはりそれ自体として、ありうる。
昨夜は11時には寝たいとおもった。過ぎてかいていてねむ、朝起きて書いている、んーすみません
上手く生活のリズムを作ってやっていきたいです。
そういえば、近所にサモトラケのニケみつけました、
むしろ気づかないでいた自分が凄いけど
でもそういうことはそれだけじゃなくて、
例えば昨日、遠くから家々の隙間ぬって自分の家が見える地点を見つけて
初めて裏側から自分の家全体を見たとき、なんとなくぎょっとした、そんなの、なんと、見たことなかったので。
また作品随時アップします。
犬と散歩行ってきます。
2011年6月2日木曜日
ドローイングのうちのひとつ、星座が星に分解、それまた神話、語られる瞬間、過去未来が今に召還みたいなやつ
齋藤春佳です。
追記、これはひとふでがきでやることに意味ありそうなのでひとふでがきです。
見た風景、見て、気になった風景とか、へんって思ったり、出来事と共に見た風景とか、描きたいなって思った風景とか
追記、これはひとふでがきでやることに意味ありそうなのでひとふでがきです。
見た風景、見て、気になった風景とか、へんって思ったり、出来事と共に見た風景とか、描きたいなって思った風景とか
記憶の中から思い出しながら、描くことで新たにふうけいが「生成」したりするので
私は絵画で全く同じ風景の「再現」は無理だと思っていて
そこには思い出しや目の前の平面や体や事と合わさったなんかを描く事で「生成」したものを更に見るという行為の瞬間、
風景に見えたりするから、不思議ですね、
不思議ですねっていいんかなちゃんとしたブログなのにわたしこんな感じでというかんじですが
不思議ですねっていいんかなちゃんとしたブログなのにわたしこんな感じでというかんじですが
で、
描いてる時間の中で、手が止まった時(思い出そうとしたり、どうしようかなって考えたり、)(脳停止ではないと思います、脳はギンギンしながらの、未来の線 / 物 / 行為へいくために、全部過去によってできてる体とか視覚記憶とかに潜って困ったりとか色々してる時点)(でも脳停止してるときもあるかも)のそのまさに部分は、点に、じわー、インク滲んで裏側まで達しています。
描いてることと描こうとした事とが結果として描かれた事、ひとつの風景に見えてる。絵に見えてる。
それは
たとえば
何億光年も向こうにある星と、何千兆光年も向こうにある星と、何万光年も向こうにある星の光たち、が、今、同時に、同時なのかな、同時ではありません、色んな時間を距離と光の速さで通り抜けて、
同時に眼球に直撃して
その見ている瞬間は3つの点に見えるそれらを
つないで白鳥座、大熊座、に見る、人は見るという行為を通じて
天体力学的関係ゼロの遠くや近めの遠い光年先の星星を、星座としてみる。
そんな感じのこと紙の上に起こして
描く表側から風景を、物物を、描く行為が時間伴いながら順々に重なっていって
裏から見ると
なんら関係を持たない点と点たちが
見る度生成している状況
星星を星座としてみる
風景を点々としてみる、
でも、点々を絵画としても見る。
今回やってみたのは五線譜に描いて、その、変な瞬間を持った点たちを基に
点々を見ることを更に、譜として読んで、
バイオリンで譜よんでく、ひろってく、弾いてく、
見る度生成する
の、見たそのときの目が拾った点とそのタイミングらの時間が音でそのままあらわれる、私の体を通してしまっていますが、
で、またその録音も、その都度聞く度、再生
見る度生成
見てない時、聞いてない時、存在してるかわかんない、人の体の行為に対して生成する
けどあるとおもうやっぱ再生されてないときも音とかなってなくて光反射してなくても
話ちがくなった
そんな
変な音源もつけます、テープ、そのテープ使って平面とか造形してもよさそうだけど、まだそこまで物事は進んでいない。
星見る行為から星座にみる、
星座からたとえばヘラクレス、
神話もうむみたいなこととからめて。
実際の過去見た風景から、すずめ窓に今ぶつかったよね、カーテンを母は買い換えて後悔している、とかただ眼球が見たいと感じた見えているもの物とかから
抽出された様々な描き、からでた風景に見えるもの
線を風景に見る行為から、点たち
点たち、更に見ることによる生成
譜としても、音として
テープなんて巻き戻してもいいし複雑すぎるかしら
でもやってみるぐるっと気持ちよく気持ち悪いものがぴたっとできたらおもしろいなあと思っています、ドローイングと作品の違いってとても曖昧で、しょぼいのがドローイングみたいな位置づけにもなっちゃいそうだけど、考えながら作るのを、決めなさすぎてもおっけー
とかいって作品も考えながら作る、考えるためでもあるなあ…
わかんないや
考えます、作ります、見ます、描きます。
今日はその、バイオリンで弾く
変な、点、譜、読めない戸惑いと時間が、そのまま、音の鳴る時間として生成して、変な、おもしろいんじゃないのこれ、変だけど、ああ、ああ、など思ってもったりもったりと音を鳴らしていたら、駒がバーンて吹き飛んで、私は放心。
バイオリン本体は無傷でよかったです、なんかずれちゃったんだな、こわかった、まだこわい、自分で直すのは怖いから直してもらいにいかなきゃ
そんなバイオリンが耐えられんようなことしちゃったのかと思う、ごめんなさい、直して、でもやります。
これはドローイング、ツアーでもれなくプレゼントのいくつかはこの手のドローイングにしようとおもってます。ツアーやるって、展覧会だよ、旅行みたい、へんですよね、おもしろいなあと思っている。
文章ばかみたいすぎてやばかったら消してください…
アートが山にのぼること、について自分が思うこと
齋藤春佳です。
今回清澄寺という環境で展示をさせていただく機会をいただき、とても嬉しく楽しみに思っています。
寺という仏教の、清澄寺という日蓮宗のすごいところで、やらせていただくわけですけれども
この展覧会は
特定のひとつの宗教や宗派や思想を推したり主張したりするものではありません。
皆ばらばらであるし、
私にいたってはチキンを食べた7日後に善光寺に初詣に行くような様子の家庭で育って、今年は4月におみくじで吉をひきました。なんとなく、土葬がいいなって思っています。
私のこの言葉もけして他のメンバーの代弁にはならず、
グループとしての特定の主張はない(これも私の主観ですが)(この時代において芸術の役割を呼び覚まそうというねらいとしての主張はあると思います)
あくまで、6人で展覧会をやる、という事実だけが確実にあるといえるとおもいます。
ではなぜひとりではなく、それでも6人で集まって寺で展覧会をやるのか、といった時
私は、清澄で、メンバー全員と初めて会って、のこぎり山を登る過程で、体験したことを思い起こします。
山道で誰かが聞いたから皆が知った「世界には不思議な穴がいっぱいあるね」、誰かが覗き込みに行ったからいたおたまじゃくし、やごの羽化、誰かが口にした杉の肌のきれいさによって見る、誰かが辿ったホースの先湧く水滴る光の道、誰かが見つけた小さい水色の花が畑状、砂浜に描かれた線をつなげる、波はα派だよ、誰かが石投げ始めることに誰かが参加する、猫との会話の仕方、魚がつれない場所、魚がつれる場所としての橋、花を髪にさしてあげる光景を見る、こわいものとしてのとんび
ひとりが見るもの聞くもの触るもの風景やすることや発見
それをするひとりひとりばらばらの人たちが、自分の体を使って山を登ることで見えるものが
呼応して、ひとりじゃ知りえないところまで、見えなかった聞こえなかったものまで
見たり聞いたりできることになる。んじゃないかなっていうところが、皆でやっておもしろいところだと思います。展覧会に通じるんじゃないかとおもっています。
2011年5月25日水曜日
作家紹介(齋藤春佳)
齋藤 春佳(Haruka Saito)
1988 長野県に生まれる
2006 長野県長野高等学校卒業
2011 多摩美術大学美術学部絵画科油画専攻卒業
主な個展
2008 「GEISAImusiam#2 」 東京ビックサイト
2009 「今はもう今はなさそう」 東京造形大学内ギャラリーnode
2010 「今、魔物、ノコギリ、リコーダー、あたし、舌、
滝、京橋、しろつめくさ、酒場、ばつ、つば、
バラ、落馬、ばらばら、乱気流、後ろ、六畳一間、
まとも、もしもし、しょうが焼き、消え、絵、
遠心力、クレーター、あなた、多面体、今」 GALLERY b.TOKYO、京橋
主なグループ展
2007 THE SIX 「ハイブリッド研究所」 横浜赤レンガ倉庫
2008 THE SIX 「imitation art」 代官山ヒルサイドフォーラム
2008 「via art EFD 」 銀座シンワアートミュージアム
2009 「Act1」 東京造形大学内ギャラリーnode
2009 「Act 」 新宿眼科画廊
2010 「電車展」 常磐線車内 上野~水戸
2010 「パレル・ピルレム・ポレリレム」 ターナーギャラリー、東京
2010 「アーツ千代田3331アンデパンダン展」 アーツ千代田3331
2010 「via art 2010」 銀座シンワアートミュージアム
その他活動
2007 学祭パフォーマンス「たま☆くま」 多摩美術大学八王子キャンパス
2009.06.15 HEDONIST’S SHAMBALAにてライブペインティング WOMBLOUNGE、渋谷
2009.08.17 HEDONIST’S SHAMBHALAにてライブペインティングWOMBLOUNGE、渋谷
2009.10.19 HEDONIST’S SHAMBHALAにてライブペインティングWOMBLOUNGE、渋谷
受賞暦
「via art 2010」にて「KURATA賞2010」受賞
多摩美術大学卒業制作にて「福澤一郎賞」受賞
トーキョーワンダーウォール2011「トーキョーワンダーウォール賞」授賞
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